以上、十枚のカルタ版木の骨刷りを見ることで、何が新しく理解できたのか。これらの史料は、採取された場所や時間が判然としないという大きな弱点はあるし、太田が自分で個々に蒐集したのか、他の誰かが収取したものを一括して入手したのかもわかっていない。だから、ここでの観察の報告は、骨刷りの図像そのものから得られる感想に留まることになる。

だが、そうだとしても、この史料には絶大な価値がある。上に見たように、十枚を個々に詳細に検討すると、そこに、花巻市を中心とする南部カルタ、黒札と花巻花札の制作史を垣間見ることができる。このこと自体が、江戸時代から明治年間を通じての、全国各地での地方札の歴史において、おそらく唯一の、実証的な研究を可能にする。

花巻花札表紙(鶴田実、昭和後期)
花巻花札表紙(鶴田実、昭和後期)
左端の藤の列は裁断されていた。

花巻市は、以前からカルタ版木が多数残存していることが知られていて、東京や京都の古物商が目を付けて買いあさり、上に見たように黒札は天正カルタ系の図柄であるので、幕末期(1854~67)や明治年間(1868~1912)の版木であっても、事情を知らない顧客に、江戸時代初期(1603~52)ないし前期(1652~1704)の京都製の天正カルタの版木だとして売ることができたし、業者が刷り出した骨刷りも、江戸時代前期(1652~1704)の京都製のもので、京都の老舗のカルタ屋の倉庫から出たとすることができた。花巻で作られた初期の版木には、京都、五條通りのカルタ屋「鶴屋」のカルタの図柄が色濃く反映していたので、この偽装は一層容易であった。「間之町 五条下ル 本つるや 六兵衛」とあるべきところが「間之町 五条下ル 本つるや 吉見」とあるからと言って、これがはるか遠方、南部藩領内の花巻でカルタ屋の吉見によって作られた版木であると判断する眼力のある者は、ほとんどいない。あるいは、花巻花札は京都発の「武蔵野」の地方版であるので、事情を知らない者に、それを京都での木版花カルタの始原、標準的な「武蔵野」の、きわめて古い版木であると偽装することも簡単であった。この偽装に騙されたのか、加担したのかは知らないが、明治中期(1887~1903)の菊栄堂の版木骨刷りを、日本最古の京都製の「武蔵野」の版木骨刷りであると振りかざして花札発生史の論文を書いてしまう者さえ出たのだから、花巻版木商売の業者の技は巧みで、その根は深い。こうした贋物が出回ったある時期には、東京や京都の古書市や骨董店で版木骨刷りが一枚数万円、版木そのものになると十万円を軽く超え、時に二十万円、三十万円という高額の値が付けられて販売されていたことを記憶している。

だが、ここで私が往時を振り返っているのは、何も、こうした詐欺的商法の被害者の古傷を蒸し返したり、迷論文の筆者を嘲笑したりしたいからではない。そうではなく、私としては、当時事情があって全国に散逸してしまった版木やその骨刷りを高額で購入してしまった場合でも、それの南部カルタの版木、骨刷りという正体を直視すれば、歴史史料としては今日でもなお価値が高いのであり、それを、南部カルタの歴史を解明する史料として研究に活用できると考えていることを説明したいのである。全く幸いにも、岩手県立図書館に、太田孝太郎の残した十枚の版木骨刷りがあるので、ここを拠点として、これを芯にして、散逸している版木や骨刷りの情報を集約できれば、南部カルタの歴史は一層鮮明に明らかにできると思う。あるいは、「南部カルタ・ドット・コム」のようなサイトがどこかに立ち上がって、研究者や蒐集家がお互いに情報を提供し、交換できればそれも素晴らしいと思う。少なくともこの「日本かるた文化館」は、そういうリンクに加わりたいと考えている。

心したいのは、南部カルタは、地方札史の研究では史料面で最も恵まれていることである。史料は、蒐集家の手に秘蔵されて学術の世界から退席しているけれども失われたわけではない。蒐集家が心を開いて実状を直視して、版木の情報、骨刷りの情報を開示してくれれば、ジグソー・パズルの欠けている一片のように、南部カルタ史の歴史像は史実に近づくことができる。そして、太田孝太郎が残した十枚の骨刷りは、こうした連携の核心たりうる。これが、太田孝太郎が後進の私たちに投げかけている課題であろう。それは、学術の公益に貢献する生涯を送った太田から、私たち研究者や蒐集家がその人格を試されているように思える。そして、私たちの間で学術のための協力が実現すれば、太田はどれほど喜んでくれるだろうかと思う。

おすすめの記事