花札の衰退と裏腹に、花札の歴史を含むカルタ史の研究は盛んになっていった。それはミネルヴァのフクロウは黄昏に飛び立つというヘーゲルの言葉そのままであるように見えた。
本書ではすでに、山口吉郎兵衛、格太郎父子の功績について触れた。『うんすんかるた』の出版は、日本のカルタ史学の状況を一変させて、多くの研究に強い刺激を与えた。そして、同書は、いわばカルタ史研究のバイブルになった。その後、山口格太郎は研究状況をリードして発言して、それがカルタ史の解明に役立った。
山口に続いたのは草柳大蔵と村井省三である。彼らはいずれも昭和三十年代(1955~64)に京都のかるた屋と接触してそこで業界伝説を知って利用した[1]。草柳は、それでもまだ客観的であったが、村井は主として大石天狗堂の前田正文と山城屋の山城吾郎の語る所を信じて歴史理解の柱にした。だが、前田らの話は実証性が欠けていたり、事実ではなかったりするものであり、それに基づいて歴史像を語れば虚構にならざるを得ない。
ポスト『うんすんかるた』のカルタ史の研究で比較的に早かったのは昭和四十三年(1968)に出版された関忠夫『遊戯具』[2]であろう。本書で関は、日本の遊戯具全般について解説している。その視点は、なお従来からの美術品としての評価を軸としたものであるが、それでもカルタ関係では「ウンスンカルタ」「花札」「歌貝」「歌かるた」「絵合せカルタ」に触れている。関には、このほかに昭和五十年(1975)の「歌かるたの歴史」[3]があり、ほぼ同趣旨の骨董史観を展開している。関に次いだのが昭和四十八年(1973)の『季刊銀花』[4]の「日本のかるた」特集、昭和四十九年(1974)の『文芸春秋デラックス』[5]の「古典の遊び 日本のかるた」特集などの雑誌でのクローズアップであった。また、昭和四十年代後半からは「いろはカルタ」研究が高まり、研究をリードしたのは鈴木棠三と森田誠吾であった。
だが、この時期の研究面での最大の出来事は、山口吉郎兵衛の『うんすんかるた』の内容がじわじわと浸透し始め、その影響下に「日本かるた館」が山口格太郎、佐藤要人、森田誠吾、村井省三、岩本史朗、岩田秀行によって設立されたことであろう。このグループは、各人が研究成果を公表するとともに、江戸時代のカルタ史研究にとっては画期的であった『江戸めくり加留多資料集』を刊行し、さらに、昭和四十九年(1974)の『別冊太陽いろはかるた』、昭和五十年(1975)の『国文学解釈と観賞五一九号 川柳/江戸の遊び』[6]、昭和五十九年(1984)の『歌留多』などの編集、制作にも積極的に関わり、この時期のカルタ史研究を圧倒的にリードした。私もこのグループの末期にはメンバーに加えてもらい、議論に参加できた。
[1] 草柳大蔵『山河に芸術ありて 伝統の美のふるさと』講談社、昭和三十九年、九頁。
[2] 関忠夫「遊戯具」『日本の美術』三十二号、至文堂、昭和四十三年。
[3] 関忠夫「歌かるたの歴史」『グラフィック版百人一首』日本の古典別巻1、世界文化社、昭和五十年、一四〇頁。
[4] 『季刊「銀花」』十三号、文化出版局、昭和四十八年。
[5] 『文芸春秋デラックス 古典の遊び「日本のかるた」』第一巻第八号、文芸春秋社、昭和四十九年。
[6]『国文学解釈と観賞五一九号 川柳/江戸の遊び』至文堂、昭和五十年。