(四)自由な女性たちの麻雀遊技
自由麻雀の時代精神は麻雀骨牌の図柄にも表現されるようになった。「筒子」「索子」「万子」の三紋標の骨牌の図柄では特に意図的な改変は起きなかったが、「東」「南」「西」「北」の風牌、「中」「發」「白」の三元牌には変わりものが登場した。一九二五年に北京市で開催された軍閥の「北京善後會議」牌 では、三元牌の「中」が「北」、「發」が「京」(「白」は手付かず)、風牌の「東」が「善」、「南」が「後」、「西」が「會」、「北」が「議」に改められた(但し別の彫工が追加した中国語のインデックスでは「南」と「西」が逆)牌が登場した。上海市の文人の書斎にあったものを大阪市の骨董商が購入して日本に持ち帰り、大阪市内の骨董市で露店販売していたものを私の知人が買い取り、私が珍しいかるたと引き換えで交換して自分のコレクションに収めたものである。普通は「春」「夏」「秋」「冬」や「梅」「蘭」「竹」「菊」の図柄が彫り込まれる「花牌」では、「俯」「瞰」「民」「意」、「選」「派」「代」「表」、「廃」「督」「裁」「兵」、「制」「限」「社」「團」と政治スローガンが並ぶ(但し「瞰」は欠)。この「北京善後會議牌」とは別に、京劇俳優の梅蘭芳が特注した骨牌では、風牌が「遊」「龍」「戯」「鳳」、三元牌が「演」「劇」「白」、花牌が「名」「伶」「表」「演」、「古」「今」「趣」「史」である。これと別に、花牌が悲恋の主人公をテーマにした「山」「伯」「訪」「友」、「藍」「橋」「相」「會」という骨牌もある。京劇で用いられる神話由来の演目、「嫦」「娥」「奔」「月」、「天」「女」「散」「花」を使った骨牌もある。いずれも個人の趣味、嗜好で自由に選んで作らせているところが面白い。
そして、私が最も自由麻雀らしいと思っているのが。華北製の輸出骨牌で、花牌が「男」「女」「平」「權」、「文」「明」「結」「婚」の骨牌である。自由麻雀が盛んだったこの時期は、全世界的に女性の参政権、労働権、そして男女対等の家庭が主張された時期でもあり、娼妓ではない一般女性も麻雀遊技を楽しむ時期であった。日本でも、大正ロマン、昭和モダンと言われる風潮で、都市の核家族の家庭を中心に、女性の自由な生き方が唱えられ、自由恋愛と自由結婚が新しい生き方としてもてはやされ、芸術、運動や芸能の世界でも女性の活躍が目立った。日本に麻雀が伝来したのはこの時期であったから、自由な女性が麻雀を楽しむという雰囲気ができていた。
もう一つ忘れてはならないのは、麻雀は、低俗な賭博ではなく、上品な遊技だという観念があったことである。この時期の中国では、麻雀と言えば娼楼の女性が客をもてなす仕掛けでの使用が盛んであったが、日本ではそうはならなかった。そして、もともとはイギリスの船会社が大西洋航路の客船に麻雀骨牌を準備して、長旅で暇を持て余す乗船客の男女にこれで遊ぶことを勧めて、そこからヨーロッパでの麻雀の流行が始まった。これを真似したのが太平洋航路の客船で、アメリカの客船も、日本の客船も麻雀牌を常備した。当時の船旅は高価で、乗船客には生活にゆとりのある上級市民が多かったので、ここでアメリカ流の麻雀遊技の楽しみを覚えた日本人には上流社会の人が多かった。
そこから、麻雀は上流社会の人々が楽しむ遊技というイメージが生まれた。ちょうどこの頃、ヨーロッパを訪問した皇太子(後の昭和天皇)が他の乗船客と麻雀を楽しむ姿が好んで報道されたりしたこともこういう良いイメージに影響している。女性たちは、この客船麻雀では男女の差なく麻雀を楽しむことができたし、下船後も男女の差なく麻雀に興じた。そこから、麻雀は女性も楽しむ上流社会の遊技というイメージが広まった。実際に、麻雀伝来のごく初期、一九二四年の正月号の『婦人画報』誌に、シー・デホーヤ女史が日本人の娘たちに麻雀を教える写真と、遊技紹介の記事「面白い室内遊戯 麻雀牌の遊び方」が載った。また同年の大阪毎日新聞社発行の『サンデー毎日』誌にも林茂光の執筆した入門案内の記事が載った。
こういう背景に思いを馳せながら、花牌が「男」「女」「平」「權」、「文」「明」「結」「婚」の骨牌を眺めると、自由麻雀という考え方が持っていた社会的な意味合いに改めて気づかされる。日本の女性たちも、女性参政権や社会進出、夫婦間での男女平等などは進まなかったが、麻雀卓の前では、つかの間ではあったが男女平等のルールの下で、男女平等に遊技を楽しむことができたのである。
大正時代の末期から昭和初期にかけて麻雀を楽しんでいた女性は何人か報告されている。その概観は、榛原茂樹の著作「婦人と麻雀」にあるのでここでは省略し、代わって片山廣子に触れたい。片山は明治時代の外交官の娘で、大蔵官僚の片山貞次郎と結婚して、松村みね子の筆名を持ち歌人や翻訳家などとしても活躍して上級市民の優雅な生活を楽しんでいた。彼女は文士や歌人にも友人が多く、特に芥川龍之介とは不倫の関係であったことが知られている。そして一九二五年の夏、彼女が軽井沢の別荘で避暑生活を楽しんでいるときに、同じ軽井沢でも別の旅館に芥川、堀辰雄、室生犀星、萩原朔太郎らが集まって暇を持て余し、「片山さんの麻雀戯を借りてやるか」という話になったのだが、芥川と堀は麻雀を知っていたが室生犀星と萩原朔太郎は知らなくて、朔太郎はこの際教えてほしいという意向だったが犀星が嫌ったので花札になった。こんな風景を芥川は『軽井沢日記』で生き生きと描いている。片山は既婚だが自由な女性として輝いているのではなかろうか。