(五) 榛原茂樹牌の再発見

大正、昭和前期に麻雀遊技の世界で活躍した日本人の先達のなかに、麻雀史の碩学、榛原茂樹(はいばらしげき)がいる。榛原は、本名が波多野乾一であり、上海市にあった「東亜同文書院」を卒業し、新聞社の中国特派員として活躍していたが、上海市、北京市での滞在歴が長く、清代末期から中華民国初期にかけての混乱する中国社会における麻雀をつぶさに観察した。なお、榛原は中国演劇にも関心が強く、本名で『支那劇五〇〇番』、『支那劇大観』などを表して中国の演劇関係者から絶賛された。また、榛原は上海時代の友人等を通じて中国共産党の内情にも詳しく、これまた本名で『中国共産党史』を表してここでも絶賛された。筆の立つ人は何をやらせても群を抜くもので、榛原は麻雀遊技の世界でも、それが賭博に堕することなく健全な頭脳遊技として発展することを念願し、『麻雀精通』を表した。これは麻雀史研究の名著でいつまでも輝いている。 

榛原茂樹牌
榛原茂樹牌

榛原が麻雀の日本への伝来において果たした役割については後に扱うとして、ここでは一九二〇年代の中国における麻雀事情について見てみよう。榛原は一九二八年に北京市内、天橋の古物商で一組の不思議な古牌を発見して入手した。榛原は麻雀に関する主著である『麻雀精通』などで、この骨牌は、現存する最古の麻雀骨牌で、麻雀の発生が太平天国以前にさかのぼることをもの語るという説を述べている。榛原は次のように書いている。 

「私は一九二八年北京に於いて約七十年前の麻雀牌を手に入れたが、それは福州麻雀で東、南、西、北のかはりに江、村、斜、影。中、發のかはりに晩、凉と刻した牌があり、白板がなくて棋、僧、待、月といふ花牌が一個づつあつた。……ところが花牌が流行したといふ長髪賊亂の時代は、一八四九~六四年であり、私の手に入れた牌は一八六三年福州製であるから、年代も良く合う。」¹ 

「『北京の浅草』である天橋から、同じく『北京の帝劇』である開明劇場までの大街の東側は、主として骨董屋、といふほどの値打ちもない一種のガラクタ屋の巣窟であるが、その中の一軒で非常に變つた牌を見附けた。……その時は別に手に入れる氣にもならなかつた。すると數日後に電通のY君が來て、餞別をやるから何か欲しいものをいへといふので、それではと例の變り牌を所望した。Y君早速仕入れて來て呉れたが、顔を見るなり、『アノ牌は餘程古いものだヨ』といふ。どういふ譯かときくと、箱の蓋の裏面に、『甲子年置於福州』と書いた原所有者の署名があるといふ。甲子は今から五年前で、その前といへばそれから六十一年前、即ち今年から數へて六十六年前の牌なのである。それから福州で買つたものだといふことも分る。」² 

この記述が確かなものだとすると、榛原が発見した古牌は、現存するものとしては世界最古の麻雀牌となり、制作の年も場所も明確な、超一級の物品史料ということになる。そこで、昭和後期(一九四五~八九)の麻雀史研究者はこぞってこの古牌の実見を熱望した。ところが、肝心のこの古牌は、第二次大戦後に行方不明になってしまった。榛原自身も麻雀史研究の世界からは遠ざかっており、没後は研究者と遺族との交流も途絶えて榛原の肖像写真でさえ全く残されていないという状態であった。榛原牌を一目でも見たいのが研究者の共通の夢であり、多くの者が榛原家の消息を求めたが叶わず、稀に郵便で遺族に辿り着いた者もいたが榛原牌の行方には情報ひとつ得られず、結局多くの研究者が挫折して終わり、いつの間にか、その遺族の住所も不明になってしまっていた。 

榛原は、麻雀史だけでなく、中国の文化を愛し、本名の波多野乾一で、中国京劇史の研究書を表し、また、黎明期の中国共産党の歴史にも詳しく、ドキュメンタリーの中国共産党の党史は、共産党の指導者たちが教えを乞うほどに、非合法の革命運動体であったのでよく分からなかった創成期の党の実態を、史料に基づいて見事に描き出していた。だから、第二次世界大戦後に日本を占領したアメリカ軍は、早い時期に波多野宅を襲って史資料や書類をすべて没収してアメリカに持ち帰ってしまったと言われていた。 

日本麻雀連盟の手塚晴雄は、「昭和三十八年十二月三十日榛原氏が亡くなられるとすぐ、アメリカのロックフェラー財団の研究所の人がきて、その中国に関する一切の関係資料を譲ってくれといって、もっていった。そのさい榛原氏秘蔵の、古い、中国産の麻雀牌の多くもいっしょにもっていかれた。」³と書いた。手塚が何を根拠にこういう真偽があいまいな史実を書いたのかは分からない。ただ、かりそめにも高名な手塚の指摘であるので、麻雀史関連の史料も、肝心の榛原牌もアメリカに渡ったのだという諦観が生まれ、それならばということで、麻雀博物館の設立準備の時期には、調査団をアメリカに派遣しようという話が本気で語られるほどであった。 

波多野眞矢
波多野眞矢

そういう、麻雀史研究者のあいだでは探索がほぼ諦められていて、手の届かない神話となりつつあった時期に、遅れて研究を始めた私はあきらめることなく食いついて探求を続けて、ついに、榛原の孫である波多野眞矢が京劇・中国文学の研究者であり、舞台に立つ場合もあることを知った。そこで二〇〇五年の年末に思い切って彼女に連絡を取り、事情を話して探索への協力を求めた。そうしたところ、嬉しいことに快く承諾してもらえて、早くも翌二〇〇六年の二月に、家屋内を探して、榛原牌と思われる麻雀牌を若干の関連史料と共に発見したとの連絡を受けた。そのあまりのあっけなさに驚いたが、研究者としては信じられない僥倖であり、感激に胸が震えた。 

私は、早速、麻雀博物館の鈴木知志副館長と二人で波多野宅に参上して「榛原牌」を実見する機会を持った。初めてこれを見た時の感激は今なお強く記憶に残されている。麻雀史の研究者が誰でも夢に見て叶わなかった瞬間であり、呆然自失という言葉その通りであった。この牌の分析と評価はこの文章の後半部で触れるが、付属した関連史料の中で最もありがたかったのは、榛原の肖像写真が何枚かあったことである。また、面白かったのは榛原が友人と行った対戦のスコアが残されていたことである。榛原は賭博麻雀を嫌い、賭け事でない純粋な頭脳スポーツとしての麻雀を主張していた、日本で最初の健康麻雀の提唱者であり、そこでこのスコアは、日本で最古の健康麻雀の実戦譜ということになる。そして、榛原牌と関連史料は、その後、麻雀博物館に寄贈された。 

この骨牌を見ると、たしかに、文字牌は、三元牌が「晩」「凉(凉は涼の俗字)」牌で「白」牌は欠けている。風牌は「江」「村」「斜」「影」である。花牌として「棋」「僧」「待」「月」牌もあるという。花牌の図柄もまた、いかにも中国らしい夜景の描写であり、心惹かれるものがある。そして、「万子」牌は「一品」から「九品」までの「品子」である。 

榛原は、これの箱の蓋裏に「甲子歳置於福州」と墨書されていたので、これは、もともとの持ち主が、一八六四年の甲子の年に福建省福州市で入手したもので、だからこの牌の制作年月はそれ以前に遡ると考えていたようである。だが、「甲子歳」は、一八六四年から六十年後の一九二四年でもありうる。「甲子歳」はこのどちらなのであろうか。再発見した榛原牌の実物の検証によってこの牌の出自は明らかになる。 

まず榛原が書き残した「甲子歳置於福州」の墨書であるが、私が詳細に読み解いたところでは、「甲子歳二月賈於福州」であった。また、この収納箱の形状はボックス型であり、一九二〇年代の麻雀骨牌の収納箱としてはごく普通に使われていたが、六十年も以前の社会でこういう形状のものが使われていた例は存在せず、その時代のものと考えるのは無理がある。 

次に、麻雀牌であるが、牌が大ぶりであること、「品子」を使っていること、その文字は通常の「万字」に比べるとはるかに大きく、牌の表面一杯に彫られていること、「二筒」の二つの筒子が離れて彫られていること、「一索」牌の鳥が二十世紀の牌に定型的な「燕」であること、「三索」の上部の索子が下部に食い込んでいないこと、「八索」が「М索」であることなど、これまで見てきた「品子」牌と共通の、「自由麻雀」の時期の特徴をふんだんに備えていることが分かるのである。なお、榛原は、三元牌を「晩」と「凉」としているが、牌の構成に八枚の欠損があり、うち四枚は三元牌の「白板」であろうと推測される。また、花牌は、「棋」「僧」「待」「月」である。 

これは自慢話であるが、私以前の麻雀史研究者は、榛原の遺族として、妻や子どもたちを頼ったのであるが、遺族には榛原の麻雀道楽への関心が低かったのか十分な協力が得られなかったようである。そうした先例に拘らずに、榛原のお気に入りだった孫の真矢に接触して榛原牌の史料的な重要性を力説して、彼女の十分な協力を得て、もはやあるはずがないと思われていた至宝の再発見に至ったのには多くの幸運があるが、私の熱意も少しは影響したのではないかと自賛している。


¹榛原茂樹『麻雀精通(改訂版)』、春陽堂、一九三一年、一四頁。 

²榛原茂樹、同前『麻雀精通(改訂版)』、二〇二頁。 

³手塚晴雄『南は北か―日本麻雀連盟雑史―』、限定版、手塚晴雄発行、一九八九年、七二頁。 

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