(一) 辛亥革命と自由麻雀の時代 

バブコック「自由麻雀」牌
バブコック「自由麻雀」牌

麻雀博物館の収蔵品の中に、一九二〇年代にバブコック(Joseph Bubcock)がアメリカに輸出した麻雀牌で、四枚の「一筒」牌の各々で、筒子の中央に「自」「由」「麻」「雀」と彫り込まれたものがある。たまたまこのタイプのものがモデルになってオランダで麻雀のトランプ状の紙牌が作られて、それが麻雀遊技ブームの欧米各国で大いに活用されたので、「自由麻雀」牌は「骨牌」と「紙牌」の双方で広く普及した。さて、ここでいう「自由麻雀」とはどういう意味であろうか。 

清国は、一九九四~九五年の日清戦争、一九〇〇年の北清事変で敗戦し、列強の植民地支配の強まりの中で一九一一年に辛亥革命で滅亡し、混乱の後に中華民国の成立を見た。ただ、こうした政治的混乱とは別に、人々の生活は正常に営まれ、麻雀遊技も流行していた。麻雀史研究家の大谷通順は著書の『麻雀の誕生』で、この時期の上海市に成立していた欧米列強と日本の租界での、売春女性の居住する娼家での「碰和(パンウ)」、「麻雀(マーチャオ)」の流行を活写してその実情を報告している。そこでは、中国が主権を失ったこともあり、売春や賭博が大目に見られていて、まさに「麻雀」遊技が解放されていたと言ってよかろう。バブコックが輸出した「自由麻雀」には、当時の上海市などのこうした雰囲気が写されている。 

そうすると、この場合、「自由」という言葉には、三つの意味が考えられる。一つは、自由に麻雀をしたいということである。だが、一九二〇年代の中華民国では麻雀遊技は禁止されていなかったのであるから、この理解は成り立たない。二番目は、政治スローガンとしての「自由」であり、自由のために闘うぞ、という気概を現した牌ということになる。一九二〇年代には、こういう政治主張的な麻雀牌があったことは事実であるが、すでに辛亥革命から十年以上たっており、いまさら拳を振り上げて自由を主張する時代ではなかったであろう。そうすると、残るのは、麻雀のスタイルが自由であること、特に、麻雀牌の図柄が自由であるということである。一九二〇年代の中国には、図柄を自分の好みで自由に変えてもよいという、オーダーメイドの麻雀牌があったのではないか。 

ここで思い出されるのが、アメリカの民族学者、スチュワート・キューリン(Stewart Culin)が清朝の最末期、一九〇九年に上海市の麻雀牌製造者を訪れた時の記録である。キューリンはここで、店の者からこういわれたと記録している。「この骨牌には、決まった標準的な形があるのではなく、客の注文であるならばどのようなものでも対応できるようにしている」¹。なるほど、これは自由な麻雀であると思う。 

麻雀の歴史には、「自由麻雀の時代」と呼べるような時期があったのだろうか。そこには、どんな麻雀牌が現れ、自由な時代、自由な精神、自由な芸術がどのように自分の姿を映し出していたのであろうか。 

ここで話題をいったんは別の世界に飛ばさせていただく。麻雀博物館には、ミステリアスな麻雀牌がいくつもあって、探求心を刺戟される。関係者の努力によって、世界の麻雀研究者があこがれる麻雀史研究の宝庫となっていたが、そこに、「万子」の牌が「品子」になっている大ぶりの牛骨製の牌がいくつかある。「一万」が「一品」、「三万」が「三品」である。こういう「品子」牌は、福建省で今でも使われていて、福建出身の華僑の多いベトナムやタイなどでも売っている。もちろん、麻雀博物館にはそういうものもあって、展示されている。大ぶりのものは、福建麻雀牌の古い形であるように思われる。 

この、「品子」牌は曲者で、変わった特徴が多い。麻雀博物館の所蔵品のうちのひとつは、一九二五年の「北京善後会議」を記念した「北京善後会議」牌とでも呼ぶべきものである。元来は私のコレクションにあった。文字牌が、三元牌が「北」「京」「白」牌、風牌が「善」「後」「会」「議」牌になっている。もう一つは、当時の有名な京劇俳優である梅蘭芳の特注による「梅蘭芳」牌で、文字牌は、三元牌が「演」「劇」「白」牌、風牌が「遊」「龍」「戯」「鳳」牌である。これは第二次大戦後に日本国内で発見され、麻雀博物館が購入した。単なる推測だが、戦前にだれか日本人が梅蘭芳から贈られて日本に持ち帰り、戦後に何らかの事情があって手放したものと思われる。三つ目は、「萬里」牌と呼ぼうか、三元牌が「萬」「里」牌で、風牌が「青」「山」「白」「雲」牌で、いかにもゆったりとした風景を表している。博物館が業者から購入したものである。また、同じような時代、同じような大きさの牌で、文字牌が「東」「南」「西」「北」牌になっているものもある(三元牌のうち「白」牌は残っているが「中」「發」牌は欠落)。私がシンガポールの古物商で発見して入手したものである。これは、「品子」牌に、「東」「南」「西」「北」「白」「發」「中」という普通の文字牌を使った日常品もあったことを示す史料である。 

北京善後会議牌
北京善後会議牌
梅蘭芳牌
梅蘭芳牌

このほかに、浅見了のホームページ「麻雀祭都」には、これらと同時期に作られたと思われる、南宋初期の忠誠の武将「岳飛」を題材にした牌がある。文字牌は、三元牌が「岳」「飛」「白」牌で、風牌が「尽」「忠」「保」「国」である。「岳飛牌」と呼びたいところであるが。所蔵者の浅見がつけた名称を尊重して「尽忠保国牌」と呼んでおこう。 

これらの牌は大変に似かよっている。収納箱がボックス型であること、牌が大ぶりであること、「品子」を使っていること、「一索」牌の鳥が定型的な「燕」であること、花牌が八枚あることなど、いくつもの共通の特徴がある。圧巻なのは、堂々とした文字や図柄の彫り方がそっくりであることと、花牌は各々の牌でテーマに合わせて図柄が違うが彫り方はそっくり同じで、使われている顔料の色調も同じであることであろう。彫りが全体にすばらしく上手であることもあって、文字牌と花牌は、同一の名人彫り師が、さまざまな麻雀牌屋の注文に応じて彫り上げたものといってもよいようである。 

ただし、これらの牌では、索子や筒子の図柄が一致しない。彫りの技術にも質の差がある。この部分は、名人でなくとも彫ることができる。また、四枚の「一筒」牌の円の中心に制作者の名前が掘り込まれている。「梅蘭芳」牌では「永」「成」「康」「造」であり、「北京善後会議」牌では「朱」「恒」「生」(一枚欠落。「造」であろう。)である。「萬里」牌では、長期の使用によって図柄が摩滅していて判読が難しいが、四枚の各々に文字があったようである。「尽忠保国」牌の場合は、ホームページにその情報が載っていないので分からないので所蔵者の浅見了に問い合わせたところ、特に文字は彫りこまれていないということが分った。このように、制作者の名前が違うのであるから、複数の工房で彫られたものと考えたい。 

このように、複数の骨牌工房で、お客の注文があると、特定の特注牌だけを、何も彫られていない「白板」状態の骨牌を外部の名人クラスの彫り師に届けて、すばらしい彫りのものを作らせるが、他の牌は自社の工房でそれなりのレベルで彫らせたとすると、想像できるのは、上海市や蘇州市の麻雀牌製造業者の間に自由麻雀のオーダーを受ける風潮があり、注文が来ると、特注牌だけ外注で彫らせるという家内生産方式の制作方法があったという事情である。文字牌と花牌については一人の名人彫り師が、複数の麻雀屋の注文に応じて彫ったのではないかと想像されるのである。 

これらの牌はおおむね一九二〇年代のものである。どうやら、この時期には、こういう変わり牌作りが盛んだったようである。バブコックがいうところの「自由麻雀」、キューリンが言うところの「客の注文に応じる麻雀牌」とは、辛亥革命による圧制的な清朝の崩壊が生んだ自由な時代精神のあり方と、増大する需要を追い風にして技術を向上させて、彫りの冴えを示すようになった麻雀の彫り師たちの自由な芸術精神が交錯して生まれた、力強く、美しい、個性ある麻雀牌の傑作であったように思われる。そして、この時期の麻雀牌の制作地は、上海市と蘇州市が有名であった。この時期には、辛亥革命で清朝の支配が崩壊した後の自由で奔放な空気の中で、欧米列強と日本による植民地支配で活気を帯びていたのが揚子江(現長江)流域の地域であり、その中心都市である上海市などに、自由麻雀が広まったと思われる。賭博系の遊技の発達史では当たり前のことなのだが、自由麻雀もまた時代の子、経済力のある地域の子であったのだ。 


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