(二)麻雀遊技の欧米への進出 
 

自由麻雀の時代に起きた重要な事象のうちの一つが、麻雀遊技の欧米への進出である。これによって麻雀は世界的な遊技になった。一見、すばらしい可能性が開かれたように思える。しかし、最初に述べておきたいのは、これは麻雀遊技にとって歓迎される状況であったのかという疑問であり、私はネガティブである。なぜならば、麻雀遊技はまだ未成熟で、遊戯のルールも広い合意を得ていなかった。あまりにも急激な世界の麻雀ブーム、麻雀遊技の世界化は、いわば幼児が知らない町の繁華街の真ん中に放り出されたような状態であった。 

日本でも、大正年間に中国から伝来した麻雀遊技には、北から、大連麻雀、北京麻雀、天津麻雀、上海麻雀、寧波麻雀、福建麻雀、広東麻雀、中国の外では、朝鮮麻雀、台湾麻雀、アメリカ麻雀などがあった。各地方ごとにそこに滞在して麻雀遊技になじんだ熱心な日本人プレイヤーがいて、その地方のルールとマナーを日本に持ち帰って、自分の持ち帰った遊技法こそ中国の中でも本場の麻雀遊技だと主張して、相争ったのである。これは要するに、自由麻雀の時代になって、中国全土の各地方で大いに活気づいて、盛んに遊技されるうちにその地域に固有のローカルな遊技法が成長している段階だったということであり、どこの麻雀遊技が優れているか劣っているかという問題ではない。それなのに、華北の遊技法は満洲麻雀と呼ばれて蔑視され、南方の遊技法は田舎麻雀と罵られ、北京麻雀と上海麻雀は本家争いをし、これに、日本国内の関東と関西のような地域差が重なって、伝来直後の麻雀遊技は大混乱をきたした。要するに、まだ未成熟で発達の途中にあった段階で、したがってまだ各地域に共通の合理的なルールが見えていない成長期の遊技なのに、世界的なブームになって無秩序に拡散してしまった悲劇であった。 

同じことは欧米でも起きた。北京に居た欧米人は、一九二三年九月の関東大震災の後で、震災被害に対する義援金を募集する麻雀大会を開催し、各国の外交官なども含めて北京滞在の上流階級の人々が参加して、麻雀遊技は上流階級の人々の社交遊技だというイメージを一気に確立させて、欧米の社会に麻雀が拡散する一つのきっかけになった。上海では、それよりも早く、イギリス租界を中心に同好者のクラブ形式で麻雀遊技が行なわれ、そこに出入りしていたスタンダードオイル社の駐在員、ジョセフ・パーク・バブコック(Joseph Park Bubcock)らによって麻雀骨牌のアメリカへの大量の輸出が行なわれ、また、それに伴う遊技法の解説書も大量に拡散して、アメリカで麻雀遊技ブームが起きた。アメリカに次いで盛んだったイギリスでは、チャド・バレー社などが紙牌、竹牌、カゼインプラスチック牌などを製造、販売して大英帝国内、とくにイギリス本土とインドでも大ブームを巻き起こした。同社も、「麻雀」という中国文字を独特の書体に開発して登録商標化した。 

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