山口格太郎
(円地文子『源氏歌かるた』
徳間書店、1974年)

続いて山口吉郎兵衛さんのご子息、山口格太郎さんについてお話しさせていただきます。ここでも、吉郎兵衛さんと同様に、格太郎さんと呼ばさせていただきます。格太郎さんは、1961年に、お父様の没後十年の節目にその遺稿をまとめられて『うんすんかるた』(リーチ社)を刊行なさいました。この本は、ご法事の際に無償で配られたり、その後もゆかりのある方々に贈呈されたりしたものですが、とても美しい装丁の書物で、美術史関係の古書として評価され、その後、少しずつ古書市場に登場するようになり、その驚異的に高水準の内容もあって高い評価を得て、稀にどこからか出て来ると、希書として高額で取引されるようになりました。格太郎さんはこうして市場に出て来るものを高額でも買い戻して、入手を希望しておねだりしていた国内外の方々や公共の図書館などに差し上げていらっしゃいましたが、これもよく「当時は何も考えなくて広く無償で配りすぎて」と反省気味に愚痴るご様子がおかしかったです。

『かるた目付ゑ雨中徒然草』
(近世風俗研究会、1975年)

格太郎さんが本格的に「かるた」史研究にのめり込んでいったのは1970年代で、1973年1月に「日本かるた館」を結成して自由な研究と議論を重ね、二冊しか残存が確認されていない、18世紀後半、天明年間の奇書『かるた目付ゑ雨中徒然草』の滴翠美術館蔵本を提供、復刻して全文を翻刻して『江戸めくり加留多資料集』(近世風俗研究会、1975年)として出版し、あるいは、当時日本最古、17世紀初期、慶長元和年間頃の「歌かるた」と考えられていた滴翠美術館蔵品の「道勝法親王筆百人一首歌かるた」や、同じく滴翠美術館蔵の18世紀初頭、宝永年間頃の「貝源氏絵入歌かるた」を提供して全かるた札の画像を復元し、それらの解説文を執筆して、濱口博章・山口格太郎共著『日本のかるた』(保育社カラーブックス、1973年、ただし「上の句」札のみ)、円地文子・山口格太郎『源氏歌かるた』(徳間書店、1974年)として出版するなど、「かるた」史研究の振興にご尽力くださいました。

もう一つ、この時期に起きた大きな変化が、国外のかるた史研究者との連絡、研究成果の共有ができ上ったことです。きっかけは吉郎兵衛さんの『うんすんかるた』をアメリカ国内で入手した PCSのヴァージニア・ウェイランド(Virginia Wayland)さんが、夫のカリフォルニア大学医学部教授、ハロルド・ウェイランド(Harold Wayland」さんの日本出張に同行して著者の吉郎兵衛さんに面会するべく来日したことでした。ご夫妻は吉郎兵衛さんが二十年も以前に死去していることを知らされて落胆しましたが、後継者の格太郎さんと面識を得て、日本国内で調査を行い、1973年の春には、遠く熊本県人吉市を訪ね、日本中、いや世界中でそこだけに残っている16世紀、17世紀に伝来した「うんすんカルタ」の遊技を見学、調査して報告しました。そこで得た新知識が、前記のヴァージニア・ウェイランドさんとシルビア・マンさんの共著、『ポルトガルのドラゴン』に結実したのです。同書冒頭の謝辞の筆頭にはMr. Kakutaro Yamaguchiという名前が掲げられています。そして、ここで成立した友情から、格太郎さんはPCSの設立に合わせてヨーロッパに渡り、各地でかるた史研究者と面談を重ね、日欧の研究者間での連携、国際協力の基礎を築きました。私は、たまたま同じ時期にロンドンに滞在していて、連絡が付きやすいという理由で日本代表となりましたけど、実質的には日本のリーダーは格太郎さんでした。ですので、後に日本でIPCSの日本人会員たちと日本支部の「かるたをかたる会」を結成した時には、代表を格太郎さんにお願いしましたし、格太郎さんは毎回わざわざこの会合だけのために芦屋市から東京にいらして参加してくださいました。

『月刊文化財』
平成三年一月号
(第一法規出版、1991年)

私は、東京や芦屋で格太郎さんと親しくさせていただいていましたが、そのお話が滴翠美術館のことになると、よく、「満岡が」とか「うちの満岡が」とか、従業員扱いでお話しになる方がいました。よく伺うとそれは滴翠美術館館長の満岡忠成さんのことで、私は心中、おいおい天下一の近世陶磁器研究者を呼び捨てかよと驚いたものです。でもそれは芦屋文化なのでしょう、格太郎さんはご自分を、理事長兼副館長に留めて社会的には満岡さんへの敬意を失礼のないように示していました。そういうお立場の方なのに、格太郎さんは、右も左も分からない若輩の初心者である私に対しては、知り合った最初がPCSのメンバー同士であったからか、「かるた」史の学会での対等な研究仲間扱いで、惜しむことなく手取り足取りでお教えくださいました。また、平成年間の初めころのことですが、私が近著の『百人一首』で「関西の乱気流」と表記させていただいた同志社女子大の吉海直人教授の書いた問題の論文があることを最初にお教えくださったのも格太郎さんでした。格太郎さんは決して他人の悪口を言わない方でしたがさすがに不愉快そうで、「江橋さんもお書きなさったほうがよろしいのでは」と仰って、さっさと『月刊文化財』誌に表紙絵と論文のスペースを確保してくださいました。

当時の私は、「百人一首歌かるた」については無名のまだまだひよっ子の研究者で、高名な専門誌から執筆依頼が来るはずもなく、書ききる自信もなかったのですが、お勧めに励まされて書かせていただきました。これを書くことは、結果として、格太郎さんが日本一の「百人一首歌かるた」史の研究者とされていた最大の根拠を疑問に付することになるのでためらいましたが、ご本人が「どうぞお気になさらずに」と仰るので、若気の至りで甘えさせていただきました。また、これも若気の至りなのですが、吉郎兵衛さん、格太郎さんがぼやかして書いてパスしていた部分をヴェールを引き剝がすように露骨に指摘したり、親子で解明できなかったことを私は解明できたぞと自慢したり、ずいぶん失礼も重ねましたが、寛大にお目こぼしくださいました。その感謝の気持ちも込めて、近著の『百人一首』では、お二人のご研究に関してきちんと評価させていただいた記述も少なくありません。格太郎さんがお亡くなりになったときには、芦屋市のご葬儀に伺いました。とても多くの方がいらしていて、お取込みのご様子なので、奥様やご遺族にご挨拶もせずに、記帳とご焼香だけで失礼しましたが、ご霊前に、長年にわたるご指導とご厚情への感謝と才能が足らずご期待に十分にお応えできないお詫びの気持ちをお伝えしてきました。

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