骨牌税の施行に向けて明治三十五年(1902)五月二十三日に「骨牌税法施行規則」(明治三十五年勅令第一五四号)と「骨牌ニ貼用スヘキ印紙ニ関スル件」(明治三十五年勅令第一五五号)が公布された。さらに六月二十三日に「骨牌印紙ノ形式及貼用方式」(明治三十五年大蔵省令第一四号)が制定され、七月一日に実際に使用する額面二十銭、帯状の骨牌印紙(嬌栗色)と、それと十字にして 貼付する骨牌帯紙が発行された。その実物はわずか数例が残存するだけで、蒐集家に珍重されている。私は、英国ロンドン市内のギルドホール図書館が所蔵する未開封のもの二例と、福岡県大牟田市の三池カルタ記念館で展示するので蒐集家から借用した一例を見ただけである。長谷川純編『日本印紙カタログ』第六版は完全品が四組のみ確認されていると記載している。私の発見例を加えても十組に満たないことになる。なお、ここでは、同誌に掲載された大阪のカルタ屋四井善兵衛の使用例の図像が明快なので、それを多少加工して転用させていただく。ただしこれ以外の図像はすべて私のコレクションである。

なお、すでに明治三十五年(2002)五月二十三日の勅令第一五五号で、制度導入期の混乱に配慮して、八月三十一日までは、同額の通常収入印紙での代用も許容された。ただし、この収入印紙による代用の実例は残存、確認されていない。

当初の骨牌印紙・帯紙
骨牌印紙貼付の形
通常印紙型骨牌印紙(左:十銭、右:二十銭)

注目されるのは八月二十一日の明治三十五年大蔵省令第二〇号であり、これは「骨牌印紙ノ形式及貼用方式」(明治三十五年大蔵省令第一四号)を改正するものであり、帯封するための帯状の骨牌税印紙にかえて郵便切手状の通常印紙型の骨牌印紙二種(額面十銭・紫色、額面二十銭・緑色)を発行した。そのために、帯状の骨牌税印紙はわずか二か月で終わったことになる。よほど不人気であったのであろう。

なお、明治三十五年(2002)当時の日本は、日清戦争の結果、台湾を領有しており、そこに骨牌税法を適用するには別途に法制度の整備が必要であった。それに向けて六月十六日に「骨牌税法ヲ台湾二施行スルノ件」(明治三十五年勅令第一六一号)が公布され、六月二十二日に「骨牌税法施行細則」(明治三十五年台湾総督府令第四七号)が制定された。日本が植民地化した台湾には、占領駐屯軍や植民地官僚、急速に拡大した開発の土木事業や港湾労働などでの工夫、人足、風俗興業の女性などが増大した。その者たちの需要に応じて花札なども持ち込まれたが、日本国内から直接に移入されたものであれば移出前に日本国内で課税され、骨牌印紙が貼付されているので課税済になるが、朝鮮向けやハワイ、アメリカ向けの輸出品は免税品であるのでそれを持ち込まれると脱税品になる。この隙間を埋めるために台湾に骨牌税法を適用する必要があったのであるが、実はそれ以上の重要問題は、客家紙牌や四色将棋紙牌の取り扱いであった。台湾には、以前から華人社会の小賭博遊技用品として客家紙牌や四色将棋紙牌などの中国紙牌があり盛んに用いられていた。これも賭博系のカルタであるから課税の対象になりうるが、とてもシンプルで安価なカードであるので、これに一組二十銭を課税するのはいかにも不穏当であった。そこで政府は中国系の紙牌について免税にしたのであり、その旨を明確にするための立法措置であった。

こののち、骨牌税法の運用に加えられた変化としては大正七年(1918)九月二十五日の「骨牌税施行規則」の改正(大正七年勅令第三五九号)が重要である。この改正により、同年十月一日より、骨牌印紙が廃止されて額面十銭ないし二十銭の通常収入印紙を貼用することとなった。骨牌印紙の歴史は十七年間で終わり、その後は印紙類の蒐集家の人気があるアイテムになった。

その後、大正十二年(1923)九月二十九日に、同年九月一日の関東大震災にともない収入印紙の在庫が払底した事態に対応するために震災暫定収入印紙(小型)が発行され、同年十二月十九日には震災暫定収入印紙(大型)が発行された。花札、トランプ類にも十銭ないし二十銭のものが貼付された。後者の震災暫定収入印紙(大型)の使用例は残存しているものを確認することができたが、前者の小型印紙の使用例は未発見である。また、大正十四年(1925)四月三十日に収入印紙のデザインが一新され、大正型収入印紙が発行された。花札、トランプ類もこれを使用するようになった。

明治型収入印紙 (左:十銭、右:二十銭)
震災暫定収入印紙 (左:十銭、右:二十銭)
08大正型収入印紙 (左:十銭、右:二十銭)

骨牌税の施行の状況については文章化されたものはほとんど残されていないが、大蔵省編纂『明治大正財政史』第七巻「内国税」(財政経済学会、昭和十一年)にその概要を見ることができる。それによると、明治三十五年(2002)以降の明治年間には、製造所数は全国で二十数か所が登録されていてあまり大きな変動はなく、地域的にも京都、大阪が中心である。カルタの製造個数は一年間に五十万組前後であるが、日露戦争後には七十万組を超え、明治四十年(2007)には九十六万組と盛んであった。日本国内での花札の流行が顕著である。そして、これに加えて、対外輸出組数は日露戦争前の時期には十万組以下であったものが、戦争後には三十万組、五十万組、八十万組と急激に増加し、明治四十四年(2011)には百二十万組を数えるほどになった。日露戦争後に植民地化が進行した韓国での花札の需要がこれほど多かったということである。

なお、明治四十二年(1909)の大阪税務監督署の第一回統計書には、輸出が多かったのは花札で、以下、順次に株札、虫札、入之吉、大弐、ヌキ札と続く。いずれも関西系である。なお、この中の入之吉は韓国向けというよりもオーストラリア、アラフラ海で真珠貝の採取にあたった潜水泳法の紀州の漁師たちの需要に応じるものであった。

大正年間に入ると、第一次大戦後の大正後期に、兼業の製造所が百か所ほど増える。これはこの時期のトランプ製造業者の急増を意味している。カルタの製造個数は右肩上がりに増加しており、大正七年(1918)にはついに百万組の大台に乗り、以後も順調に拡大して、関東大震災以後の大正後期には二百万組を超えている。これには、この時期には花札だけでなくトランプも普及したことが大きく作用している。もう一つ特徴的なのは輸出用のカルタの製造で、第一次大戦中の大正四年(1915)に六百万組、同五年(1916)に千三百万組、同六年(1917)には千七百万組と桁違いの急増である。これは第一次大戦で戦場となったヨーロッパ各国からのアジア向けのトランプの輸出が止まり、その空隙を埋めようと、日本に雨後の筍のように生じたトランプ製造業者が輸出して大いに潤った事情を表している。

こうしてみると、骨牌税の施行の実績には、明治年間の国内での花札の流行、大正年間のトランプの流行が貢献したものの、カルタ製造業界の活気は、主要には明治年間の朝鮮向けの花札の移出、大正年間のアジア各地向けのトランプ輸出の急増がもたらしたものであり、いずれも骨牌税は免税であるから、業界の好景気にもかかわらず税収の伸びはそれほどではないことが分かる。ただし、骨牌税法の立法時に見込んだ税収三十万円は大正九年(1920)に実現され、それ以降は三十万円台、四十万円台と続いたのであるから、立法としては成功したことになる。


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