四 榛原茂樹牌と梅蘭芳牌 (九)日本語辞典、漢和辞典における「麻雀」 日本語辞典、漢和辞典における「麻雀(マージャン)」という語の掲載事情を何点かの書籍から抜粋してみよう。 大正期、昭和前期 漢和辞典(書名不詳、文求堂書店)大正三年(1914)(昭和元年六版) ma chiao erh 麻雀児 賭博具ノ一種 詳解漢和大字典(冨山房)大正五年(1916)(昭和二十七年修訂増補版) 麻雀 マ... 館長
四 榛原茂樹牌と梅蘭芳牌 (八)榛原茂樹牌と梅蘭芳牌 榛原茂樹が中国、北京の骨董店で発見した榛原牌については、「二 「自由麻雀」時代の麻雀牌」ですでに扱った。榛原は生涯これが1864年以前の古牌と信じていたようであるが、実際は、1920年代の自由麻雀の時代の産物であった。一方、梅蘭芳にも、この時代に特注で作らせた梅蘭芳牌がある。ここで、この梅蘭芳牌について細かく見ておこう... 館長
四 榛原茂樹牌と梅蘭芳牌 (七)二人の再会 京劇訪日団到着 波多野は、実はもう一度、梅蘭芳に会っている。それは、梅蘭芳が三度目の訪日を果たした昭和三十一年(1956)のことである。梅蘭芳を団長とするこの京劇代表団は、全国各地で熱烈に歓迎され、日中の友好交流の歴史に画期的な成果をあげたが、それはさておき、梅蘭芳と波多野の交流についてだけ書いておこう。 梅蘭芳は、こ... 館長
四 榛原茂樹牌と梅蘭芳牌 (六)榛原茂樹と梅蘭芳 私は、京劇の名女形俳優、梅蘭芳が、日中戦争の時期に、香港を占領した日本軍に京劇を演じて占領を称賛するよう強要されたのに抵抗して苦しめられながらも、麻雀仲間の日本人とは親しく交わり、そこで日本人に贈られた麻雀牌が今では麻雀博物館に展示されていることを書いたことがある。梅蘭芳が、髭を生やして女形を演じることを拒否し、日本の... 館長
四 榛原茂樹牌と梅蘭芳牌 (五)榛原茂樹と波多野乾一 閑話休題。榛原は、さすがに、草創期の麻雀関連書物のこともほぼきちんと指摘していて誤りがない。また、クラブ式麻雀のその後についても、関西方面にはいくつかのクラブができていたが、それを別にして東京で考えれば、第二号は、大正十三年(1924)の春に『婦人画報』社が同社の建物で毎週開催したクラブである。ほぼ同じ時期に東京牛込の... 館長
四 榛原茂樹牌と梅蘭芳牌 (四)麻雀と書いて「マージャン」と読む歴史 ここで大きく脱線するが、「麻雀」と書いて「マージャン」「まあじゃん」と読むのは何語だろうか。「麻」は日本語では「ま」であり、これを「まー」と引き延ばすのは他に例が少ない。「雀」は「じゃく」であって、「じゃん」と撥音便化するのは他に例を見ない。そして、日本語の漢和辞典では、「雀」には、「すずめ」と「じゃく」はあっても「じ... 館長
四 榛原茂樹牌と梅蘭芳牌 (三)上方屋牌と文藝春秋社牌 麻雀ブームはその後東京にも移ってきた。大正十三年(1924)、まず『婦人画報』に麻雀を楽しむ女性たちが紹介され、林茂光の執筆になる競技法が掲載された。婦人画報社は、中国から麻雀牌を輸入し、林茂光の『麻雀の遊び方』を添えて売った。ついで、大阪で編集されていた『サンデー毎日』に麻雀の競技法が紹介された。同好の士のグループと... 館長
四 榛原茂樹牌と梅蘭芳牌 (二)関西での麻雀の流行 井上壽美枝『麻雀教科書』 その後、大正十年(1921)頃から関西地方で麻雀が徐々に流行し始めた。当初はルールもバラバラで混乱したが、大正十五年(1926)に大阪に「廣珍園麻雀倶楽部」が生まれ、昭和二年(1927)に「大阪麻雀倶楽部」と改称して規則の統合が進み、大阪の光榮商店から田邊竹三郎が『世界的遊戯 麻雀の遊び方』を... 館長
四 榛原茂樹牌と梅蘭芳牌 (一)黎明期の日本麻雀 日本人と麻雀の接触は、明治年間以降、中国を旅した者が現地で見聞したところに始まる。その多くは記録されることなく歴史の中に埋もれて風化してしまったが、鈴木知志は、長年、文献史料の発掘に努力し、何点か、埋もれていた史料を発掘した。夏目漱石が明治四十二年(1909)に大連、ハルピン、朝鮮を旅行して、その様子を「満韓ところどこ... 館長