四 宮廷絵画の世界での幕府による覇権の確立 (一)徳川の血筋による皇位創出の挫折 この際、更にもう一歩を進めておこう。幕府は、なぜ江戸狩野派の歌仙絵を高く評価して受容したのか、である。その背景には幕府による文化政策、文化における主導権の掌握という政策の進展がある。徳川家康が関ケ原の合戦の勝利で天下人になってから試みたのは、下剋上で主家を圧倒して成立した新政権の内部での新たな下剋上の発生を防止して、政... 館長
三 歌仙絵画の変遷に関する誤まった解釈の是正 (三)「論より証拠」と言われて 私は名指しで「論より証拠」とまで言われたので、論証をもう一度整理しておこう。私は、①百人一首の歌集では、現存最古のものと言われる『為家本』、室町時代の最高権威であった『宗祇抄』、安土桃山時代に断絶の危機から救った『幽斎抄』、「古今伝授」にならった「百人一首」の「御所伝授」の新伝統となった『後陽成天皇百人一首抄』、『後水... 館長
三 歌仙絵画の変遷に関する誤まった解釈の是正 (二)崇徳院の上畳の問題への無理解 なお、私が問題提起した崇徳院の上畳の問題について、「従来は、滴翠美術館の伝道勝法親王筆かるたを筆頭として、ごく早い時期の肉筆かるたの特徴とされてきました。古いかるたはそれで間違いないようですが、それが元禄頃に繧繝縁に移行したというのは資料的に否定されます。というのも、最近になってそんなに古そうでもない版彩色のかるたにも... 館長
三 歌仙絵画の変遷に関する誤まった解釈の是正 (一)旧説の問題点、旧説継承の問題点 これが、私の調査で判明した江戸時代前期の歌人図像付きの「百人一首かるた」発祥の真実であった。三十六歌仙絵と百人一首歌人絵の関係について語るのであれば、こういう基礎的な調査の手を抜いてはいけない。基本中の基本である『素庵百人一首』を調べもしないで、斎宮女御が持統天皇に化身したなどという史実に反するファンタジーを創作しては... 館長
二 百人一首歌仙絵の世界での指導権の争奪 (七)崇徳院の上畳描写が示す歴史的な意味 歌人絵というジャンルでの土佐派と江戸狩野派のしのぎ合いは、結局は、狩野探幽らの『百人一首手鑑』が幕府に受け入れられたことによって江戸狩野派の歌人絵の正統性が幕府によって公認され、同派の全面的な勝利に終わった。また、江戸の浮世絵師菱川師宣の活躍により版本において江戸狩野派の図像の優位が確立し、それが「百人一首かるた」の歌... 館長
二 百人一首歌仙絵の世界での指導権の争奪 (六)狩野派の目指した崇徳天皇の復位 そして、ここで最も目を引くのは、狩野派が、崇徳院に繧繝縁(うんげんべり)の上畳と茵(しとね)を配して描くことによって、それまでは崇徳院から畳、茵を除くことで、同院を「廃帝」であるので上皇として認めず、臣籍に追放していた土佐派の絵師と光悦、素庵を非難し、そしてそれを容認した後水尾朝廷の皇室史解釈を批判している点である。後... 館長
二 百人一首歌仙絵の世界での指導権の争奪 (五)江戸狩野派による歌仙絵の主導権の奪取 ここで私が注目したのは狩野探幽である。狩野探幽は、幕府の奥御用絵師という立場を得て、江戸で江戸狩野派を開いた。当時、歌人絵付きの「歌仙手鑑」が大流行して特に上流階級の女性に愛好されるようになると、江戸城の城中でも将軍家の女性たちが享受することとなり、探幽には、この「歌仙手鑑」の制作という仕事を土佐派に独占させるのではな... 館長
二 百人一首歌仙絵の世界での指導権の争奪 (四)尾形光琳による改革の試み 百人一首の版本の改革者が菱川師宣であったとすれば、「百人一首かるた」の改革者は尾形光琳であった。「百人一首かるた」では、元禄年間(1688~1704)になると『像讃抄』の影響が増して古型から標準型へと転換したが、光琳はそれに不満を持ち、かるたを美術作品として描いた。光琳は元禄年間(1688~1704)の後期から宝永年間... 館長
二 百人一首歌仙絵の世界での指導権の争奪 (三)菱川師宣による改革の背景 ここできちんと確認しておきたいが、崇徳院は、後水尾朝廷によって「廃帝」とされ、天皇の系譜から排除されていて、公式には、幕末期に上皇位に復位が認められ、白峯神宮が創建されるまで名誉も神格も認められていなかった。師宣程度の町絵師がそれを勝手に復位させることなどは到底ありえない。逆に言えば、師宣が刷新を世に問うことができたの... 館長
二 百人一首歌仙絵の世界での指導権の争奪 (二)『小倉山百人一首』の書は『尊圓本』の模倣 『小倉山百人一首』の字配り (小野小町、 右:『尊圓百人一首』) なお、師宣は『師宣本』において、和歌本文の書については『尊圓本』の文字遣いをそのまま踏襲している。つまり、師宣の激しい先例批判の矛先は歌人名や和歌本文の書には向いていなくて、もっぱら歌人図像がターゲットになっていたのである。 すでに吉田幸一は、師宣が、延... 館長
二 百人一首歌仙絵の世界での指導権の争奪 (一)菱川師宣『小倉山百人一首』の百人一首絵改革 菱川師宣『小倉山百人一首』表紙(国会図書館本、延宝八年) だが、崇徳院の上畳の不在は歌人図像付きの「百人一首かるた」の始期を物語るとしても、上畳の問題はこれがすべてではない。これと逆に、元禄年間(1688~1704)に崇徳院のカードに繧繝縁(うんげんべり)の上畳が現れたことは、この頃に「古型百人一首かるた」が終期を迎え... 館長
一 百人一首歌仙絵画の変遷 (四)上畳描写の変化を示す実例 上畳が登場した例としては古い時期のものとなるが、私が所蔵する「飛畳三十六歌仙絵色紙」では、畳が茵(しとね)のように立体的に描かれていて、歌人絵は、これも今日の言葉でいえば魔法のじゅうたんに乗って空を飛んでいるアラジンのように座っており、上畳に乗って空中に浮遊している感がする。山辺赤人、中納言兼輔、壬生忠岑の図像は特にそ... 館長