(五)「上海公司」と「日光社」
なお、麻雀牌に関連しては、「上海公司」についても一言しておこう。「上海公司」は東京市日本橋區日本橋で織物問屋を営んでいた斎藤茂勇が一九二八年に上海とのの取引を始め、一九三〇年に麻雀骨牌の輸入を試みたところに始まる。当時の上海の麻雀界はすでに世界的なブームが終わっており、祭りの後のような寂しさであったが、遅れてブームになった日本では麻雀骨牌の需要は爆発的で、輸入牌は高価でもよく売れて品不足であった。そこで斎藤は、輸入を拡大するとともに、骨牌やその代用品の国内製造を開始して、牛骨牌、象牙牌の他に、鯨骨牌、海豹牌、プラスチック牌などを製造した。当時、大阪で国外からの注文に応じていた下請けの「大日本セルロイド會社」や「内外セルロイド會社」はすでに引き気味であり、この後の麻雀牌需要は「上海公司」が一手に引き受けた。
同社のことは第二次大戦後いつしか忘れられていったが、日本健康麻将協会の田辺恵三の尽力で斎藤の子孫との連絡が付いて、麻雀博物館は同社の事務室の片隅に埋もれていた関連グッズを蒐集、展示したのでその存在が目に見える形で麻雀の歴史にしっかりと刻み込まれたことになる。博物館が出版した『麻雀博物館大圖録』には同社の関連したグッズの写真が掲載されているが、「一索」牌と「一筒」牌の見本ボード板が面白い。「一索」牌の部分二十個近く並んでいるもののほとんどが華北系の「孔雀」の図柄であり、華中の「燕」などの多彩な図柄はないし、華南の「鸚鵡」もない。まして古牌にあった「青蚨(チンフー)」図柄の骨牌など見えることもなかった。実は大正期から昭和初期に輸入された骨牌の中には、「青蚨(チンフー)」図柄のものが相当程度混じっていたのであるが、「上海公司」はそれに留意しなかったようだ。「一筒」牌も、日本的な図柄にしているが、四枚の骨牌の各々に文字を入れて四文字熟語にした十年ほど古い中国の「自由麻雀」時代の流行も留意されていない。「上海公司」の関心はもっぱら上海での最新流行の図柄のものを追いかけることにあって、麻雀の由来とか、図柄の特色とか、その文化性などへの関心は薄かったようである。その視野の狭さがおのずと見えてくるのが面白い。
これに関係してもう一つ書いてきたいのが日本の手作り麻雀骨牌のことである。日本では、旺盛な麻雀牌需要に応えるために、中国から輸入するほかに、麻雀牌の国産化への歩みも始まった。先駆的な文藝春秋社の取り組みに次いで、日本人の彫工による手彫りの麻雀牌が売り出され、その後、膨大な麻雀牌需要に応えるために様々な素材の代用品が生産され、さらに当時最先端のプラスチック製造技術も動員してプラスチック牌の製作も行われた。麻雀博物館はこの面でも日本麻雀史を調査して、その成果を『麻雀博物館大圖録』に掲載した。調査の時点は、戦後と言ってもすでに五十年経過しており、当事者の所在、生死も分からないことが多く、史料の発掘、保存には困難があった。物品史料に基いて正確な歴史を記録に残すという点では、ほとんどラストチャンスだったと思われる。何とか間に合って良かったと嬉しく思った。
これは、麻雀伝来の初期のエピソードの紹介にすぎないのだが、世界の遊技史では、どこでも、新しく海外から入ってきた、いかにも海の香りのする遊技具を自国の文化に溶け込ませようとして、改良、改善の提案をする者が出てくる。麻雀骨牌の場合も同様で、何とかこれを日本化しようとする試みは次々に現れた。ここでおかしいのは、一九二四年に朝鮮、京城(現・ソウル)市の「家庭娯楽研究社」によって刊行された蒲池良介の『支那が生んだ世界的遊戯 麻雀の遊び方』である。
京城に在住の蒲池は、かねてより「一、我が國(こく)民(みん)は萬(ばん)世(せい)一系(いっけい)の皇室を奉戴(ほうたい)し、世界に誇(ほこ)るべき權(けん)威(い)を有する國民なれば、苟(いやしく)も、大詔(たいしょう)を遵(じゅん)奉(ぽう)し、我國軆(こくたい)の精華(せいか)である、家族(かぞく)制度(せいど)の美點(びてん)を益々發揮せしむるに心掛け、弊害(へいがい)多い民衆娯樂(みんしゆうごらく)より、有効なる家庭娯樂を採用(さいよう)する事に留意(りうい)せねばならぬのである。」と考えており、「一、輸入(ゆにう)骨牌(こつぱい)は今度、奢侈(しゃし)品(ひん)中に編入(へんにう)され重税を課(か)せられたから、勤儉(きんげん)貯蓄(ちよちく)を奨勵(しようれい)し、國力涵養(かんよう)を絶叫(ぜつきゆう)せねばならぬ秋、成るべく廉價(れんか)である紙札の使用を御勸(おすす)めする。」という次第で、自身で考え出した紙麻雀の採用を訴えている。
その牌は「寶札」が「天」「地」「人」の三種、「四季札」が「春」「夏」「秋」「冬」の三種と、「一菱形」~「九菱形」、「一短冊」~「九短冊」、「一萬」~「九萬」が四枚ずつ、合計百三十六枚であり、遊技用語もすべて日本語化されて、「自取り上り」「両待上り」「撃ち上り」「終へ札上り」「一色上り」「混ざり一色上り」「三組暗札上り」「總暗札上り」「七ツ對札上り」「九連上り」「四季札上り」などである。日本国内の緩い愛国主義と対照的な、植民地特有のピリピリした愛国主義の雰囲気である。よく、極端な排外的愛国主義はその国、その民族の周辺地域で起こると言われており、その例として、ゲルマン民族の居住地では周辺地域のオーストリアで生まれ育ったヒトラーが極端な排外主義者に育ったことが言及されるが、蒲池の場合も、植民地朝鮮であればこその極端な自己主張であろうか。だが、ここまで突っ張るのに、なぜか遊戯の名前は「麻雀」のままで読み方も国籍不明の「まあじゃん」であるし、用いる札の名前も「麻雀カード(計算札百枚付函入 特價金貮圓)」である。蒲池はこれが「京城日報」と「毎日申報」に連載されたことが自慢で、この書の表紙にも特記して自慢しているが、ここまで行くのであれば、「麻雀」という国籍不明の言葉の使用をやめ、せっかく「札」という立派な日本語があるのに「カード」という不浄なアメリカ語を使用するのも止めて何か他の日本語に改革してほしかった。いずれにせよ、こういうタイプの人が言ったり書いたりしたものの利用はできれば遠慮したいところである。