(八) 榛原茂樹と梅蘭芳

ここまで何回か、榛原茂樹に触れてきた。榛原は第二次大戦以前の日本の麻雀界をリードしたオピニオンリーダーであり、当時、麻のように乱れていた麻雀競技法の改良、統合にも多くの発言をなし、麻生雀仙(本名賀来俊夫)とともに「日本雀院」を設立して実際の競技にも力を入れたし、木村衛も加えて「麻雀學會」を設立して遊技法の改良に取り組みもした。彼の著作『麻雀精通』¹は、日本麻雀史研究の基本文献として、今日でも光り輝いている。 

ところで、この榛原茂樹というのは麻雀世界での筆名であり、本名は波多野乾一(はたのけんいち)である。一八九〇年に大分県に生まれ、長じて、中国上海の東亜同文学院政治科を一九一二年に卒業すると、翌一九一三年に大阪朝日新聞社に入社し、それ以降、大阪毎日新聞北京特派員、北京新聞主幹、時事新報北京特派員など、中国問題専門の新聞記者として活躍した。第二次大戦後も、産経新聞論説委員などで活躍したが、一九六三年、七十三歳の誕生日の直後に逝去した。 

波多野は、中国問題の研究者として大変に優秀であり、第二次大戦後に日本を占領したアメリカ軍も注目しており、A級戦争犯罪人を裁くように占領軍が設置した東京裁判では、戦前の中国問題や満洲問題への鑑定書を提出して採用されている。波多野が書いた中国共産党に関する著作、とくに実証的な『中国共産党史』は、中国共産党自身が、自分たちの作った党史よりも勝っているといったくらいに、名著の誉れが高い。だから波多野が保持していた中国共産党関係の史料は、中国共産党研究を進めていたアメリカ当局によって没収され、アメリカに渡ったと言われていた。

梅蘭芳
梅蘭芳

こういう経歴の榛原は、大正年間にも、昭和年間に入っても日本と中国を行き来しており、新聞記者として交際の範囲も広く、とくに上海には、東亜同文学院在学中の友人、知人が数多くいたし、北京には京劇に関係する友人が多数いたので、中国の政治、文化や、それと日本人との関係の情報はリアルタイムで入手していた。京劇の俳優、とくに名優、梅蘭芳との交友は著名であり、京劇に関する知識を得たし、この筋から中国共産党に関する知識も得ることがあった。当然ながらその中には、まさに日本に到来し始めた麻雀というゲームのことも含まれており、自らもこれを愛好する者として、状況の進展を熟知していた。大正年間の後期には、上海周辺で、このローカルな遊びが外国人の人気を得るようになり、とくに、スタンダード・オイルの福州支店に勤務していたジョセフ・バブコックによって、広く世界に紹介された事情も目撃している。その意味で、榛原は、日本麻雀の黎明期を知っている最重要の目撃人物であるし、彼が書いて残したものは信頼に値する。 

私は、京劇の名女形俳優、梅蘭芳が、日中戦争の時期に、香港を占領した日本軍に京劇を演じて占領を称賛するよう強要されたのに抵抗して苦しめられながらも、麻雀仲間の日本人とは親しく交わり、そこで日本人に贈られた麻雀牌が今では麻雀博物館に展示されていることを書いたことがある。梅蘭芳が、髭を生やして女形を演じることを拒否し、日本の敗戦を知るとその日に京劇への復帰を決意してその髭を剃った故事は、日本軍に抵抗していた中国人の感動を呼び、中華人民共和国の成立後は、梅蘭芳は人民英雄として尊敬されるようになった。そこで、梅蘭芳の麻雀道楽は、アヘンの常習的な吸引や妻以外の女性との交際の問題などと共に背後に押しやられ、梅蘭芳が交際していた麻雀仲間については特定されていない。そういう梅蘭芳の仲間の一人が榛原であったことを明らかにできるのは、もはや日本側でしかないだろう。 

榛原の『麻雀精通』には、二ヶ所、梅蘭芳との麻雀の交遊に関連する指摘がある。それと別に、ある雑誌に「小説 梅蘭芳傳(一)(二)」を寄せている。これですべてである。『麻雀精通』の文章は、第一は、榛原が「梅蘭芳のマネヂャア兼作者」の齊如山から、出身地の「直隷(今の河北省)高陽地方」にはマーチャオ紙牌のゲームがまだ沢山残っているという話を聞いたことがあるという記述²である。第二は、梅蘭芳の家での話で、「私が梅蘭芳の家で見たものなどは、梅が上海へ興行に行つたとき、わざわざ蘇州まで行つて仕入れて来たという由緒つきのものだが、六十元だといつてゐた」という記述³である。 

いっぽう、「小説 梅蘭芳傳」は、京劇のスター俳優に成り上がっていく梅蘭芳の姿を描いたものであり、榛原のフィクションが入り乱れている。そして、内容は主として京劇の関係であり、終わりの部分で、成功した梅蘭芳の一日の生活を描写する段で軽く麻雀に触れているが、小説の主題とまでは言えない。また、フィクションも入っているからか、榛原はこれを彼の麻雀関係の書物には収録していない。これは以前に一度だけネット上で紹介されたことがあるが、ネットではよくあるように紹介が不正確なのでここに改めて紹介しておく。次の記述がある。 

「蘭芳の私的生活はきはめて平凡です。大抵午後二時頃起き(夜が遅いので、恐ろしい寝坊です)、朝食といはうか晝食といはうか、とにかく第一食を濟ませるとすぐ客間にでる。色々な御客さんが詰めかけてゐる。外交官政治家新聞記者役者寫眞屋千客萬來である。外國の観光團などは、蘭芳を北京名所の一ツ位に心得て、遠慮なしにドシドシ押しかける。蘭芳が又それを愛想よくもてなすものだから、益々評判がよくなる。三時頃になると崑曲の師匠と武劇の師匠が來る。梅の演る芝居の中に武劇がかつたものも澤山あつて(『金山寺』、『混元盒』等。)、絶へずこの方の練習もして置かなければならないのです。四時から五時頃になると馮幼薇、李釋戡、齋如山等の綴玉軒同志が揃ふ。蘭芳のマネヂア格の姚玉英も毎日來る。これらの連中は木戸御免で、自分の家同様にしてゐる。客間は外支折衷で、家具なんかも紫檀づくめで立派なものだが、綴玉軒同志はそこよりも書齋の方が好きで、大抵その方に集まる。書齋には楢の木製の馬鹿に大きいデスクが据へてあり、家具なんかも平凡な洋家具だが、連中にはそれが懐かしいらしい。何となればそれは幼薇が買つてやつた北蘆草園の蕉宅にあつたものだからだ。これらの連中が集まつて、芝居の方の用談が濟むと、御多分に洩れず麻雀。夜は大抵宴會があり、十一時頃やつと舞臺に上る。大抵一時間位で濟み、夜中の零時半位にハネる。又應酬がある。寝るのは大概三時頃になる。いつか勘彌や喜久子が北京に來たとき、『某日午前一時半潔樽候教』といふ招待状を蘭芳から貰つて、邦人の大部分は面喰つてしまつたが、ナニ、綴玉軒の連中に取つては、午前一時半は普通人の午後九時位なところなのだ。」(原文にある振り仮名は省略した)  

この榛原の文章の中で、梅蘭芳の麻雀に触れた部分は「芝居の方の用談が濟むと、御多分に洩れず麻雀」とわずか一行だが、自邸の書斎で親しい友人たちと午後は芝居の話をし、夜の早い時間に麻雀を楽しみ、その後に宴会、そして芝居小屋に移動して舞台に上がるという日常の生活ぶりがよく分かる。そして、この友人仲間に榛原も入っていたのだと思う。 

榛原は、というよりも本名のほうがふさわしかろう、波多野乾一は京劇にも詳しく、その京劇史研究は中国人をも凌駕していた。『支那劇と其名優』『支那劇大観』『支那劇五百番』などの書がある。彼は、多くの京劇関係者と親交があり、梅蘭芳とも交際があった。この記述は、たまたま書き残されたものであって、その背景には、長年の親交、特に、麻雀の好きな二人であるから、麻雀卓を囲んでの親交があった。 

梅蘭芳牌
梅蘭芳牌

榛原にならって多少小説風に記述しよう。一九三〇年代の北京、梅蘭芳の舞台を見た帰りに榛原も連れ立って梅蘭芳の居宅に行き、美酒を傾け、その日の舞台を論じ、怪しくなりつつある日中の関係を嘆いているところに、齊如山らが梅蘭芳お気に入りの特注麻雀牌をもって現れ、「そろそろこれにしますか」と二人を誘う。そんな情景を想像するところで、ここでの話はいったん終わりである。 

だが、波多野は、実はもう一度、梅蘭芳に会っている。それは、梅蘭芳が三度目の訪日を果たした一九五六年のことである。梅蘭芳を団長とするこの京劇代表団は、全国各地で熱烈に歓迎され、日中の友好交流の歴史に画期的な成果をあげたが、それはさておき、梅蘭芳と波多野の交流についてだけ書いておこう。 

京劇訪日団
京劇訪日団

梅蘭芳は、このときの旅行の印象や感想を、後に『東遊記』⁴という一冊の著作にまとめた。原文は中国語であり、日本語訳が、一九五九年に、岡崎俊夫訳で、朝日新聞社から出版されている。その中に「旧友と会う」という一文がある。これによると、波多野は、梅蘭芳が日本に到着した次の日の五月二十七日に、待ちかねたように早速に宿舎のホテル・テート(現在のパレス・ホテル)を訪れている。梅蘭芳はこう書いている。 

波多野乾一氏は、老北京(ラオベイチン)で、流暢な中国語を話されます。私の第一回・第二回の日本訪問のさい、いろいろと御援助をいただいた方ですが、現在は「産経新聞」で中国関係の社説を書いておられます。氏は「あなたの『舞台生活四十年』を読みました。第三集はいつ出ますか」などと聞かれました。私どもは昔話に興じ、氏は氏の書かれた『支那劇大観』を恵まれました。この老先生は中国劇のファンで、この道の通でもあります。氏は多くの北京の名優の芝居――楊小楼(ヤンシャオロウ)、龔雲甫(クンユンフー)、赧寿臣(ホーンユーチェン)ら老先生の演技を見ておられるので、そのころの話になりますと、表情たっぷり、いかにも楽しそうでした。私は、以前の二回の東遊のさいの写真や書付をはった資料を持ち出して、みなさんに、どなたが御存命かとおたずねしたのですが、波多野氏は、ひとりひとり説明して下さいました。御存命の方はすでに暁の星のようにわずかでした。 

二人は、動乱期の中国で、お互いに若くして、政治と京劇と麻雀をともに語り合った親友であった。こういう二人が、第二次大戦後の十年以上にも及ぶ日中間の往来の途絶を乗り越えて、久しぶりに再会したのである。お互いの近況の報告や、積もる話しはきりがない。一九二〇年代の北京、三〇年代の上海、不健康だが魅惑的だった中国社会での、革命、京劇、麻雀の思い出が、次々と口にされたであろう。それに、華やかだった梅蘭芳の過去二度の日本公演の思い出が重なる。 

「再会した老朋友は瞬時にして往時に戻る」といわれる。この言葉さながらに、若い頃の気持ちに戻った二人は、ともに、邯鄲の夢の中にいたのであろう。随行員に、先生、お時間ですとせかされるまで。この年、梅蘭芳、六十二歳。波多野乾一、六十六歳。 

波多野乾一の孫に、波多野真矢がいる。國學院大學、立教大学で活躍する、中国研究者である。立教大学のホームページで公開しているところによれば、波多野が京劇に目覚めたきっかけは、「祖父が中国に行っていたので、京劇の女優の写真などが身近に家にあった。その後、中国語を習い、留学した。そこで京劇を見て全く分からなかった。でも周りの観客は喝采をおくっているのに、それが分からないのが悔しかったから」ということである。このホームページに掲載されている波多野真矢の講義「京劇の観客・・・『通』や『見巧者』の存在」は、京劇を支えている優れた観客たちに焦点を集めた研究の成果で、先端的で、現場性にも富んでいて、興味をそそられる。また、特筆されるのは、波多野真矢自身が京劇を演じている場面の記録である。ホームページを見る⁵と、一九八七年に京劇研究会で上演したときの波多野を見ることができる。 

こういう孫娘の活躍を、波多野乾一も喜んでいることだろう。同じく、梅蘭芳の子孫も京劇の世界で活躍している。あの世で、波多野乾一と梅蘭芳は、麻雀卓を囲みながら、孫自慢をし合っているのであろうか。 

榛原茂樹が中国、北京の骨董店で発見した榛原牌については、「二 「自由麻雀」時代の麻雀牌」ですでに扱った。榛原は生涯これが一八六四年以前の古牌と信じていたようであるが、実際は一九二〇年代の自由麻雀の時代の産物であった。一方、梅蘭芳にも、この時代に特注で作らせた梅蘭芳牌がある。これまで何回も扱ってきた麻雀牌であるが、ここで細かく見ておこう。 

梅蘭芳牌は、麻雀博物館が所蔵し、『麻雀博物館大圖祿』でほぼ実寸大に近い大きさで紹介されている。ある麻雀業界人が入手元は秘密にしたまま自慢していたものを博物館が購入したのが経緯である。風牌は「遊」「龍」「戯」「鳳」で、三元牌が「演」「劇」「白」である。世には三元牌が「龍」「鳳」「白」のいわゆる「龍鳳白牌」があるので紛らわしいが、「遊」「龍」「戯」「鳳」はいずれも風牌の色、濃紺色である一方で、「演」は「紅演」で「劇」は「緑劇」であり、明らかに「紅中」「緑發」に相当する。最高の男優は演劇の世界で皇帝のように遊び、最高の女優は妃のように戯れる。梅蘭芳の強烈な自我意識が表されている。 

一方、花牌は、「名」「伶」「表」「演」「古」「今」「趣」「史」である。伶は、「伶悧」で「怜悧」と同様に「賢い」「利口な」の意味を持つが、元来は「俳優」「楽人」の意味である。だから、この八文字は、名優が古今の趣のある歴史を演じるという意味であろうか。これもまた梅蘭芳のプライドを表している。なお、「今」の牌の旗印図柄の中に、「文明」「自由」の文字が見える。梅蘭芳が自由な文明を願って彫らせたのか、名人が遊び心で彫り加えて梅蘭芳を喜ばせたのか、いずれにせよ、この時代の「自由麻雀」の空気をいっぱいに吸い込んだ名器である。 

そして、「一索」は、イギリス人好みの、大きな鳥が地球儀の上を飛翔している図柄であり、世界的名優の自負心が示されている。私は、一九二〇年代の「自由麻雀」の時代でも、これほど強烈に自我を表した牌の例を他には知らない。また、この時代に流行した「自由オーダー牌」は、特注の牌は名人の彫りであるが、合わせて一組にする通常の数牌の彫りは並みの職人が担当していて迫力に欠けるものが多いのだが、この梅蘭芳牌は、「筒子」「索子」「品(万)子」がいずれも見事な彫りで少しも見劣りがしない。梅蘭芳の特別の注文であろう。すべての骨牌が名人自身によって彫られている。さぞかし高額の謝礼を支払ったのであろう。この梅蘭芳牌をもって、一九二〇年代の「自由麻雀」の時期の自由な空気を表す、その時代の代表作であろうと思っている。梅蘭芳と榛原茂樹がこの牌で遊技を楽しんだ可能性は相当にある。 

梅蘭芳と言えば、私には北京の思い出がある。この町のとある小径を入った奥に、昔梅家の料理人だった人が経営する小さな料理店があった。観光案内書の類には載っておらず、私も北京の友人に連れて行ってもらって初めて知ったのだが、とても美味で時々通うようになっていた。店の主人が日本大好きという人なので、日本から北京に来た友人、とくに女性をよく案内した。皆、梅蘭芳ゆかりなのにそれをことさら宣伝しないひっそり開いている料理店であることに感動し、料理がどれも飛び切り美味で大満足したのだが(支払いは私もちだったし)、凄いのは翌朝で、滞在先のホテルを訪ねると、今朝は顔の肌が大変なことになっていると大騒ぎになっているのが常であった。こんなに艶やかなのと狂喜している。私が、梅蘭芳は京劇の舞台化粧が肌に悪いし、暴飲暴食になるときもあるので、料理人はそれが一晩で肌の疲労、傷みが回復できるように秘術を尽くして料理した。基本はコラーゲンの配合だと思うけど、素人の私には分からない。結局、女性たちの北京旅行ではいつも、この店に案内したことが、故宮の観光よりも、万里の長城の観光よりもはるかに深く感謝された。中には病みつきになって自分で通い詰めて秘術を教わったのか、肌がきれいで有名な女優になれた人もいる。だからこの榛原の小説の描写を読むと、あの料理店の味わいが思い出されて、梅家の宴会の料理もあの味だったろうなと想像される。 

一方、榛原茂樹と言えば、細い糸を手繰って波多野真矢にたどり着いた感激を思い出す。彼女の個人情報であるからここで公表することはできないが、榛原は真矢にとってはお祖父さんなのだから、普通の祖父と孫の懐かしい関係があったのであり、榛原の没後にその書斎で大量の京劇関係の写真を発見して見入った様子の話もとても印象深かったし、それが機縁で長じて京劇の研究に入ったのであるから、榛原が生きていれば嬉しそうに見守ったであろうなと想像した。また、京劇を学ぶためにしばしば中国を訪れるある著名人に通訳として随行して、難解な京劇の専門用語を誰にもできない高いレベルで日本語に通訳している仕事ぶりも、榛原が知ったらさぞかし喜んだであろうと思った。 

榛原本人に戻ろう。榛原には、梅蘭芳牌に触れた文章はない。いや、梅蘭芳との友情や麻雀を共に楽しんだ時代の追憶の文章もない。私は、ここにも、無用な友人自慢をしない榛原の謙虚な人柄と、人民中国の英雄になってしまった梅蘭芳の若き日の放埓を暴露して今の立場を傷つけまいとする配慮、忖度を感じている。二人の友情は静かに深い。 


¹ 榛原茂樹『麻雀精通』、春陽堂、初版昭和四年、改訂版昭和六年。 

² 榛原茂樹、前引「麻雀精通」、一二頁。 

³ 榛原茂樹、同前『麻雀精通』、二八頁。 

⁴ 梅蘭芳(岡崎俊夫訳)『東遊記』、朝日新聞社、一九五九年、六頁。 

http://home.hiroshima-u.ac.jp/cato/fotoKG2.html 

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