文藝春秋牌
文藝春秋牌

(四)初の国産麻雀骨牌、「文藝春秋社牌」の登場

上方屋に次いだのは文藝春秋社であった。自身が熱心な麻雀愛好者であった社長の菊池寛の肝いりであろうか、同社は出版社であるのに「麻雀部」が立ち上がり、麻雀牌や遊技卓その他の関連用具が販売され、麻雀牌の輸入品に骨牌税が課税されて一層高価になると、中国から麻雀牌の大連市の千山閣書房が上海市で麻雀骨牌を製造させていた関係を使って上海市の彫工を日本に呼んで彫らせて、国産品として売り出すことで高額の課税を回避してコストの軽減を図った。これが国産一号牌と呼んだ文藝春秋社麻雀牌であり、当時の日本で大好評であった。

中村は、大連を拠点に麻雀店を経営したり、麻雀書を出版したり、麻雀骨牌を販売したりしていたのだが、骨牌は上海の業者に下請けに出して製造していた。この経験を基に中村が考えたのが、中国から未彫刻の骨牌、いわば「白板」状の骨牌を大量に輸入して、これは関税も安いし骨牌税も免れるので安価に調達することができるのだが、これを日本国内で中国人の彫工に彫らせて完成させて売り出すというビジネスモデルであった。菊池寛はこれに賛同して、東京府荏原郡北品川に家屋を一軒借りて、中村が手配して上海から連れてきた彫工に仕事をさせて、文藝春秋社から発売した。

私は、麻雀牌からの麻雀史を考えるようになった頃から、この文藝春秋牌にお目にかかりたいと思っていたが一向にその機会は来なかった。しかし幸運なことに、ある時、東京都新宿区の花園神社の骨董市を覗いていると、ある露店でこれが目に入った。私は、驚愕、驚喜しながら購入した。その後麻雀博物館に寄贈して、『麻雀博物館大圖録』に掲載できたので、その情報はすでに公開されている。牌は華北系のもので想定の範囲内であったが、収納箱は全く想像もしていなかった形状で、そちらの方に驚いた。『麻雀博物館大圖録』の掲載写真を見ると、箱に小さなシミがある。私がこれを発見した骨董市の日には、路上で露天商たちが開店した後に雨が降り始めて、皆が一斉に商品を仕舞い始めた時に私が通りかかり、片付けを急ぐ骨董商が早く商談を終えたいので値引きしてくれた思い出につながる。私の到着が五分遅ければ店仕舞いした後で入手できなかったであろうと幸運に感謝した。そしてよく、この雨粒一滴ごとに安くなったと研究仲間にコレクション自慢をしていた頃の記憶がよみがえる。いずれにせよ、これが、発見した当時は、私の知る限り唯一の残存する文藝春秋社牌であった。

私が発見した当時には、この骨牌の生誕のエピソードは麻雀業界では有名でだれもが知っていたが、骨牌の実物はどこにも見当たらなかったのであるから、当時は唯一の残存品ということになった。ただ、その後、ネットのオークションなどに時折出品されているようである。私が発見して、図録に載せるなど大はしゃぎしたので人々の注意がこの牌に向かい、自分の持っている麻雀骨牌との異同も調べるであろうし、そうなれば、昭和初期には数千個、数万個の単位で制作されたものであるから、これと同じものを持っているとか、見たことがあるとか言う人が出てくるもので、いくつも発見されているのである。私のポジションは、残存物の唯一の発見者から一段階下がって、何点かある残存物の単なる最初の発見者というところに格下げで落ち着いた。私として不満はない。

この文藝春秋社牌は、収納箱は厚紙製で、独特の正方形、真紅の彩色で、赤本ならぬ赤箱であり、いかにも自由麻雀の時代らしい雰囲気であるが、中身の文藝春秋牌はごく平均的な上海の牌である。ただ、これを紙箱から出して卓上に並べ、手にしていると、昭和初期に実際にこの骨牌で麻雀をしているかのような気分になれる。タイムマシンでその時代を訪れているのかもしれない。物品史料を駆使する歴史研究では、こうした錯覚がしばしば起きる。そこが文献史学では望みえない物品史学の研究手法の楽しみ、ご褒美であろうか。

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