(七)麻雀流行の拡大:名古屋、横浜、鎌倉、東京

関西から火が着いた麻雀の流行は全国各地に飛び火した。名古屋市では、関西方面での麻雀ブームの影響を受けて、それなりに盛り上がっていたが、本格的に活発になったのは、一九二九年に丸善書店大阪支店の社員司忠が、同店の名古屋支店長に昇格して赴任して来てからである。司の熱心な働きかけにより、名古屋市での麻雀流行の機運は盛り上がり、市内に麻雀倶楽部が次々と立ち上げられた。浅見が紹介した『麻雀春秋』の記事によると、一九二七年に市内北区大曾根に麻雀用具店「麻雀堂」が開店し、そこから「名古屋麻雀倶楽部」が生まれた。それ以降は、「陸ビル麻雀講習所」「五荘講習所」「城東麻雀倶楽部」「赤塚麻雀倶楽部」「竹戰倶楽部」「ゴールド倶楽部」「昭和倶楽部」「中京倶楽部」「清雀倶楽部」「アサヒ倶楽部」「春秋倶楽部」「平和倶楽部」「天狗倶楽部」「東郊倶楽部」「三元荘」「神風倶楽部」「主税町倶楽部」などが続々と誕生して大いに栄えた。この内「清雀倶楽部」は教則本の製作に力を入れ、一九二八年には『麻雀競技法とその戰略』を出版して版を重ね、翌1929年には『標準 マージャン必勝の作戰』を出版した。名古屋は東京と関西の中間地点であるので、東と西でルールが異なる状態には懐疑的で、東京と関西が和合して協力し合い、全国的な統一ルールが成立するのを願うという立場であった。これが名古屋市でのクラブ麻雀時代の実相である。 

東京近郊では、横浜市が盛んであった。ここはもともと東京という大都市の海の出入り口であるし、町中には大きな中華街もあった。この町では、一九二五年に「仙雀会」が結成されて春、秋に大会が開催され、やや遅れ気味だが一九二八年に「三七三麻雀倶楽部」が設立された。翌一九二九年になると俄かに倶楽部の新設が増え、「横浜麻雀倶楽部」「横浜麻雀同好会」「曙麻雀倶楽部」「関内麻雀倶楽部」「横浜麻雀会」などが出現した。     

そして、ここに登場しなければいけないのが鎌倉市である。ここには上流家庭の住居も多くあり、文士などもいて、早くから麻雀が盛んだった。彼らは市内にあった「海浜ホテル」に集まって麻雀を楽しんだ。ここでの麻雀は、ホテルの外国人客の忘れ物である麻雀牌が披露され、そこに同席していた麻雀遊技を知っている人が教師役になって教室になったものであるが、久米正雄や里見淳などが特に熱中して盛んになり、東京の上海公司の輸入牌を買い求めて使用する本格的なクラブになっていった。久米正雄は後に東京の麻雀界に進出して、日本麻雀聯盟の初代総裁になった。この鎌倉麻雀は独立性が強く、「鎌倉麻雀倶楽部」に独自の「鎌倉規則」を定めるなどの活動があった。小グループであったのだが社会的な発信力が強い人がいたので、実態以上に大きく印象を残したのであろう。 

さて、いよいよ東京である。この地方の麻雀の歴史については語りにくい。流布している歴史の記述は業界で語られてきた神話の繰り返しであり、確実な史料に基いているのかどうかが不明のものが多い。また、クラブ麻雀の場合は、中心人物ないしその取り巻きの人による、そのクラブの活動の客観的な紹介よりは自己の業績を誇示する文章の場合が多い。東京にはこういう「オラが」、「オラが」と言い競うタイプの麻雀マニアたちが発した情報が溢れている。彼らを支援する新聞社などにも、先行した関西を追い抜いて全国の麻雀界を統合して、そこに君臨する野望が顕わである。そして、有名人に祭り上げられたリーダーたちは、「総裁」や「中央委員長」などという、およそ麻雀のように穏やかな遊技には相応しくないおどろおどろしい名前のポストについて、万事を自分の考えと利益で取り仕切りたがる。麻雀は、もともとは、そんなに悪くは言われないが、そんなに褒められるものでもなかったのだが、リーダーたちの上昇志向には、そう言う遊戯を趣味にする世界に居て世間のやや冷たい視線にさらされてきた者の、にわかブームで成り上がっても消えないコンプレックスが裏返しに見え隠れする。だから彼らが指導する麻雀界は、未完成であった遊技ルールの統合では、楽しい慰安の遊技のルールを樹立することよりも、射幸心をあおる方向へのルールの改訂に行きがちである。こうすると麻雀遊技に賭博色が強まることになり、短期的にはブームに群がる人々に人気が出るが、長期的に健全、健康な遊技としての麻雀の発展を考える時、さて、これでよかったのであろうか。 

この点では榛原茂樹の主張に注目したい。榛原は、賭博色の強い賭け麻雀を嫌い、金銭のやり取りをしない健康麻雀を主張して実践していた、いわば日本の健康麻雀の元祖であり、東京で流行した賭博麻雀のマナーの悪さにも冷ややかであり、「雀品」を問題にしていた。私は、特に榛原が『麻雀春秋』一九二七年七月号に寄稿した「雀品に就いての考察」が重要な指摘だと思う。当時の東京では、荒っぽい、賭場まがいの打牌や対局マナーが横行していて、賭金も高額になり、博奕遊技っぽい雰囲気に似合っていたが、榛原はそうした遊技の姿勢を非難して、静かで、スポーツ選手らしいフェアなマナーの麻雀遊技を行うように勧めている。こういう榛原は、マウンティングだらけの東京の麻雀界における一服の清涼剤だと思う。だから東京の麻雀界のありさまについては、当時の状況を比較的に客観的に見ていて記述している榛原茂樹の著作を基に説明してみたい。 

東京での倶楽部麻雀時代の幕開けは、通常は、空閑緑(本名・空閑知鵞治)が一九二四年に四谷區四谷に設立した「東京麻雀會」だと言われている。但し、これは当事者による自己宣伝のための説明であって、それ以前の東京に、報道されることなく無名に終わった麻雀愛好家の集団、倶楽部がなかったとは言い切れない。「東京麻雀會」は、一九二七年に京橋区銀座尾張町に移転して「東京麻雀倶楽部」に改組され、一九二九年に「日本麻雀聯盟」に改組され、同年に制定された「日本麻雀標準規則」を採用し、その普及に尽くした。その後、一九三二年に、「本郷麻雀會」「昭和麻雀會」「銀雀會」などと「大日本麻雀聯盟」を結成し、空閑が中央委員長、機関誌『麻雀春秋』編集長として活躍したが、その独断専行が嫌われて対立し、脱退して京橋區西銀座に「日本麻雀聯盟」を設立した。 

次にできたのが、杉浦末郎が一九二七年に荏原郡上目黒村に立ち上げた「西風麻雀倶楽部」であり、このクラブは一九二八年に「日本麻雀協會」と改称し、一九三二年に「日本麻雀聯盟」と合併して「大日本麻雀聯盟」となった。この倶楽部も一九二九年に「日本麻雀協會規則」を制定した。 

高橋緑鳳が主導した「本郷麻雀會」も歴史が古い。これは、「東京麻雀倶楽部」「日本麻雀協会」「三田麻雀倶楽部」と並んで、東京の麻雀倶楽部四天王と称したが、どこまでが実際の世評で、どこからが自己宣伝の時評か分からない。なお、これらのクラブとともに一九三二年に空閑緑の日本麻雀聯盟に吸収されて「大日本麻雀聯盟」になったものに、前田清が代表の「昭和麻雀會」もある。 

次に注目されるのは林茂光(本名・鈴木郭郎)である。林は、すでにプランタンに触れた際に書いたように、このグループに途中から加わり、そこでの麻雀遊技を秩序あるものに改善し、また、大阪の『サンデー毎日』誌編集部に見出されて同誌で健筆をふるい、それに注目した「上方屋」の依頼で麻雀の入門書『支那骨牌 麻雀』、通称「赤本」を出版して東京の麻雀業界の指導者に成り上がった。この「赤本」の末尾には、京橋區銀座に開設した林が主催する麻雀教室「麻雀練習場」の広告がある。 

一方、榛原茂樹は、一九二九年に、麻生雀仙らと京橋區銀座に麻雀研究会「銀雀會」を設立し、「銀雀會競技規定」を定めた。しかし、世間の評判は芳しくなかったので、翌一九三〇年に「日本雀院」と改称し、「日本麻雀聯盟規則」を採用した。この俱楽部も、一九三二年に日本麻雀聯盟に大同団結して大日本麻雀聯盟を形成した。榛原は又これと別に林茂光、木村衛と「日本麻雀學會」を結成して規則の研究を進めた。 

私は、一九二九年頃から、倶楽部麻雀の時代は、連盟麻雀の時代へと移行していると思う。この時期は、空前の爆発的な人気で、全国各地に麻雀倶楽部が林立し、個々バラバラなルールの下で普及していった。そもそも麻雀骨牌の祖国の中国でも共通ルールは未完成で、各地で食い違いがあったところ、その食い違いのままに日本に持ち込まれたので、共通ルールが存在しなかったのである。この欠陥を正さねばならないという問題意識は各地のリーダーたちに共有されていた。そこに起きたのが「関西麻雀聯盟」の結成と麻雀大会の開催であり、これが成功すると、刺激された東京勢が後追いで同様の行動に出たのである。ただ、ここで東京勢は、先行する関西勢との協議、協力の道から外れて、東京中心主義で話を進めるという自己中心主義になったように見える。そして、東京のマスコミの発信力や、麻雀界の有力者たちが持っていた発信力の強さに依拠して全国をけん引しようとした。 

この試みは一応成功して、全国規模の団体が成立し、空閑緑や菊地寛らのリーダーは、「総裁」や「中央委員長」という大げさの役職を得て小児のように歓び、全国規模の競技会が開催され、麻雀関連書籍や雑誌が多数出版され、麻雀骨牌などの遊戯具も売れたのであるが、底の浅い急成長は結局は失墜して、わずか数年で熱狂の時代は去り、東京の麻雀界は折から生じた軍国主義礼賛の風潮に押されて衰退した。空閑緑のように世間の空気に敏感なリーダーは、麻雀が賭博遊技として過熱して警察当局に睨まれる様になり、一九三二、三三年に、菊池寛のような東京のリーダーたちや鎌倉の文士たちが賭博罪で逮捕されるような空気になると、いち早く「東京麻雀粛正同盟」を設立して対応した。しかし、体制は大きく傾き麻雀界の衰退は続き、その後、中国での戦争が拡大するにつれて、「敵性文化」というレッテルを貼られて迫害されるまでになった。麻雀界は火の消えたような寂しさであった。但し、これは東京での話であって、大阪やその他の全国各地では、細々と目立たないようにではあるが、無名の愛好者の間で麻雀遊技はたくましく続いていたと思う。派手な賭博麻雀ではないが、健康、健全な麻雀遊技が持っているゲームとしての穏やかな魅力、友人とともに遊技して勝ち負けを争うのだが終局後は和やかな感想戦を楽しむ心がもたらす安らぎは、それなりに各地の麻雀ファンに浸透し続けていたのだと思う。 

従来の麻雀史は、こういう空気の変化を単純に「第一次ブームの終わり」と表記して事足れりとしているが、私は、とても楽しかった全国各地の「クラブ麻雀の時代」から、東京中心主義の「連盟と大会の時代」への急激なかじ取りで、それを主導したリーダーたちは、遊戯規則を変えて行った賭博遊技的なゲーム性の高揚が人々の射幸心を刺激して熱狂を掻き立てることに酔い、自己の勢力と名声の拡大、高揚を求めて覇権争いを行い、麻雀を健康な遊技文化として穏便に育てる余裕がなかったことをとても残念に思っている。時に元祖争いを行い、どちらが本場中国直系の遊技法であるのかを争い、麻雀倶楽部同士の客の取り合いの争いを起こし、業界団体を結成してリーダーシップを争い、たちまちに分裂して対立し、やれ満洲の田舎麻雀だとそしり、やれ麻雀を書いているだけでちゃんと打っていないとそしり、やれ連盟と雀院の二股だとそしり、やれ総裁の独断専行で独裁的だとそしる。短い時間、狭い場所でどうしてこんなに争いと分裂が繰り返されたのか、歴史を著述する私としては困惑してしまうのである。 

ただ、いずれにせよ、日本の麻雀ブームは一九三二年以後には急速に衰えていった。麻雀はこれまで数回指摘しているように、まだ遊技としての歴史、実績が浅く、合理的な遊技法、遊技規則も成立していな段階に急に世界的な遊技ブームを巻き起こしてしまい、未完成のままに拡散していったので、その熱狂の期間は短く、引き潮のように去っていった。日本の麻雀史の説明では、しかし、ブームの衰退はもっぱら軍国主義時代の空気のせいにされ、こういう麻雀に内在した欠陥や、にわかに成り上がったリーダーたちの自己中心主義のマウンティング争いという失策について内省することは少なかった。これも心ある指導者に恵まれなかった業界の悲劇であった。 

おすすめの記事