青蚨(チンフー)化した馬吊紙牌の一索札
青蚨(チンフー)化した馬吊紙牌の一索札

(三)麻雀遊技の流行を支えた「麻雀骨牌」の供給

ここで、一度視野を世界に広げて検討したい問題がある。それは麻雀骨牌の価格である。もともと、麻雀骨牌遊技の発祥の国である中国では、それ以前には「錢牌」の紙牌が使われていた。その基本は「馬吊紙牌」であるが、これは「筒子」「索子」「万子」の三紋標で、各々が一枚ずつ、絵札の構成次第で一組三十枚から三十八枚程度である。これがデュプリケイション(二重化)して一組六十枚から八十四枚程度になり、さらにもう一度デュプリケイションを繰り返して四倍の一組百二十枚から百四十四枚程度になった地方もある。近代中国のアメリカでデューイに学んだ近代中国のプラグマティストで、国民党を支持した思索家、胡適は、「錢牌」の中でも中国南部で使われていた一組百二十枚の「江西紙牌」が一組三十枚の「馬吊紙牌」を四倍化した地方札であり、「麻雀紙牌」の元になったと指摘した。この胡適の指摘が正しいとすると、「江西紙牌」が「麻雀紙牌」を経て「麻雀骨牌」になったことになるが、問題はその価格である。

「錢牌」は庶民の慰安の具であるからべらぼうに安価である。日本円で言えば一組十円程度ということもよくあった。私自身も、中国の地方都市で卸売りの店に行ってその地方の地方札を三組程度購入しようとすると、ときには値段は数百円程度で言ってくるので、多少高いが支払えない額ではないからまあいいか、日本人と思って足元を見たなと思いつつ求められた金額を支払うと、店の奥から数十組の「紙牌」の入った大きな包みを持ち出してきて渡されることが時々あった。いや私の欲しいのは三組程度だといっても、遠慮することはない、もう支払ったのだから全部持って行けと言い返してくる。言葉の問題で私が誤解していたのであり、売り手が示した値段は、小売業者が仕入れに来た時のまとまった数の購入を前提とした「ダース売」のもので、一個あたりにすれば超安値であったのだ。結局ホテルに持ち帰って、梱包して郵便局から国際郵便で日本の自宅宛てに送ったことが何回かある。私の留守宅は売れないカルタ屋の倉庫みたいになってしまったが。そして、この「錢牌」の価格からすると、麻雀骨牌は数百倍、ものによっては数千倍の高額である。これほどの価格差がある遊技具の革新は歴史上も珍しい事象である。

古来、同じ社会で、遊技で普通に使う器具に数百倍、数千倍の価格差があった例は聞いたことがない。日本でも、例えば江戸城で将軍様がお使いになる将棋の駒が、市中で売られている標準的な価格水準のものの数百倍、数千倍になったためしは聞いたことがない。京都の御所で皇女がお遊びめされるカルタやかるたは、宮中の繪所に関係する土佐派の絵師が制作していたが、それが一組何万両もしたという話もない。社会に貧富の差が歴然としており、貧しい者は道端で飢えて死んでいくのに富める者はとんでもない贅沢な生活を送るインドや中国での現象を「アジアの豪奢」ということがあるが、「麻雀骨牌」は賭博系の遊技での「アジアの豪奢」の代表例である。そして、一組の遊技具に一家族が一年食べていけるだけの金額を支払って平然としていて、少しでも傷ができるなど気に入らないところが出てきたらすぐに廃棄してしまう浪費ができるのは、宮廷の人々か、妓楼で散財を惜しまない買弁交易関係のお大尽かである。麻雀骨牌もその通りで、これが最初に盛んに用いられたのは、上海市の租界に有った妓楼と北京市の清朝の宮廷であった。こうした事情も、江戸時代の初期、新来のカルタの小賭博遊技が京都の宮中と「六條」「島原」「祇園」などの色街から広く社会一般に普及していった事情と同じである。

上方屋
上方屋

日本への麻雀骨牌の伝来を考えると、最初期には名川彦作のように個人が中国でこの遊技に触れて面白さに目覚め、帰国する際に上海市、天津市、大連市などの港町で帰国土産に購入した事例がほとんどであった。そして、日本社会で麻雀の遊技への関心が少しずつ高まり始めた時に骨牌を輸入して販売したのが、東京都京橋區(現・中央区)銀座で花札、トランプなどを売っていた絵葉書屋の「上方屋」であり、浅草區(現・江東区)森田町にあったその支店の「下方屋」であった。

上方屋は、明治十年代末期にトランプや花札の販売が解禁されるようになると、いち早く情報を得て銀座に開店して大ブームを引き寄せ、日本一のカルタ屋に成長した実績がある。その際には、トランプや花札のゲーム法を載せた小冊子を附録で添付してカルタを販売したのが大ヒットの決め手になった。そこで同店は、麻雀骨牌の販売開始にあたっても同様のことを考えた。また、麻雀の世界でも、これを欧米に紹介したバブコックが、赤い表紙のルールブックを添付して販売したという先例がある。これは、「レッド・ブック」という通称で広く普及し、欧米の麻雀ルールの基礎となった。

「支那骨牌 麻雀」
「支那骨牌 麻雀」

そこで、上方屋は、『婦人画報』の麻雀競技法の執筆者であった林茂光が、「華昌号」という会社の名前で自ら発行した、表紙もバブコック並みに赤色の小冊子『支那骨牌 麻雀』を添付して麻雀牌を販売した。この小冊子は一応一円という定価がついているが、これは附録のありがたみを増すための見せかけで、自分で出版しているのだから「著者検印」も省略されており、実際に書店で売られるよりも、麻雀牌の付属品として無料で使われることが多かった。こういう事情で、この小冊子は他のものを圧倒して広く普及し、「赤本」と呼ばれて日本の麻雀ルールの基礎となった。

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