(六)関西での麻雀の流行と国産ゼロ号牌の出現

日本への麻雀の伝来の経過で、最近はすっかり理解が浅くなっているのが、ごく初期の段階で関西人が果たした役割である。麻雀の歴史を語る際には、今では林茂光や菊地寛などの東京勢の活躍がよく紹介されているが、実際には、関西の麻雀愛好者たちが果たした役割が大きかった。その実態は、例えば榛原茂樹の『麻雀精通』などを読めば随所に示されているのに、なぜか、「関西の麻雀」とまとめて紹介した書物には、ほとんど出会ったことがない。この点では尊敬する浅見了の業績も例外ではないのだが、この、東京関係の事象の誇大評価、対照的な関西麻雀界の不当な軽視には不満がある。

麻雀は、一九二一年頃から関西地方で徐々に流行し始めた。この地域は海上航路で上海市とのつながりが深く、独自に盛り上がっていったが、一九二四年に大阪市東区(現・中央区)北浜の「廣珍園 」に深江彦一(大阪毎日新聞社役員)、全徳信治(夕刊大阪新聞社代表取締役)、森田茂樹(大日本セルロイド社長)、多田卯三郎(同役員)、司忠(大阪丸善書店社員)、熱海三郎(退役陸軍少将)などが集まって「廣珍園麻雀倶楽部」が発足し、一九二七年に「灘萬(だんまん)麻雀倶楽部」になった。その後、大阪市、神戸市などに続々と会員が集まって楽しむ麻雀倶楽部が開店した。「新興麻雀倶楽部」「阪南麻雀倶楽部」「粉濵麻雀倶楽部」「新世界麻雀倶楽部」「築港麻雀倶楽部」などのほか、「内外倶楽部」「香珍園麻雀倶楽部」「精華倶楽部」「西宮倶楽部」「北麻雀倶楽部」「船場倶楽部」「新町倶楽部」「蒼龍倶楽部」「睦倶楽部」「心斎橋倶楽部」「阪神倶楽部」「太平ビル麻雀倶楽部」「清交社倶楽部」「大三元倶楽部」「五色倶楽部」などがあり、また企業側には「大日本セルロイド麻雀倶楽部」「白木屋麻雀倶楽部」「満鐡麻雀倶楽部」「日本生命保険麻雀倶楽部」「藤田組麻雀倶楽部」「大阪毎日新聞麻雀倶楽部」「宇治川電気麻雀倶楽部」などができた。麻雀ガールの「洗練されたサービス」を提供するホールも、大阪駅前の「ステーションクラブ」など多数が営業を始めた。

これらのクラブの間では、当初はルールもバラバラで混乱したが、一九二五年に大阪市に「日本麻雀倶楽部」が立ち上がって、一九二七年に「全關西麻雀聯盟」に発展し、競技規則の統合が進んだ。この成果は「全關西麻雀聯盟標準麻雀競技規則」である。一九三〇年には、聯盟の機関誌『麻雀界』も発刊された。こうして振り返ってみると、大正時代後期に日本の麻雀会をリードしたのは関西の麻雀ファンで、愛好者が集まって会員制のクラブを作り、そこで遊技に取り組み社交を楽しむようにしたのは関西であったことが分かる。この時期をクラブ麻雀の時期とすれば、これは関西発のアイディアであり、関西が東京をリードしている。

クラブ麻雀が盛んだった一九二八年の秋に、大阪市で大阪新聞社主催の日本で初めての麻雀大会が開催され、四百人の愛好者が参加した。これが可能になったのは麻雀クラブがまとまって「關西麻雀聯盟」が結成され、大規模な大会の開催が可能になったからである。私は、この時期からの麻雀会は、「連盟結成と大会の時代」に入ったとみている。

レインボウ会議
レインボウ会議

この大会成功が報道されると、何事も「おらが町が一番」と自意識過剰だった東京の麻雀業の世界は大ショックであり、翌一九二九年の春三月に、関西の後を追って國民新聞社と日本麻雀聯盟の共同主催で半年遅れの麻雀大会を開催し、六百人に近い愛好者を集め、参加者が多すぎたので二日に分けて行った。また、同年四月に、文藝春秋社と国民新聞社が日本麻雀聯盟の各クラブの代表者と有識者を集めた標準規則制定委員會、会場の名前からいわゆる「レインボウ会議」で「日本麻雀標準規則」を定めた。

これを契機に関西麻雀界の実力が見直され、東西対抗戦が開催され、東西の麻雀業界の融合が企画されたが、東京側は、話し合いの途中で翌一九三〇年に一方的に「全国代表会議」を開催して従来の「日本麻雀標準規則」を一部改訂して「日本麻雀聯盟規則」を発表した。これで置いてけ堀になった関西は、関西麻雀聯盟で対応策を検討して、同年五月に關西麻雀聯盟の「標準麻雀規則」を定めた。こうした関東と関西の分裂を憂いたのが、名古屋市在住の司忠と高野明芳であり、両名が呼びかけて、一九三一年一月に名古屋市で「全國統一雀則制定會議」が開かれた。これに参加したのは、名古屋の司忠、高野明芳両名のほか、東京の林茂光、杉浦末郎、木村衛、西東南北、高橋緑郎、横浜市の船木慶一、大阪市の緒方某、吉村勝之丞、岩田穣、神戸市の武井某など三十名あまりであり、協議の末に「日本麻雀基準規程」が合意されたが、これも結局はうまく行かなかった。その後、東京の日本麻雀聯盟は、一九三〇年、一九三一年と聯盟規則を改定し、元来の中国麻雀のルールに近づけたので關西麻雀聯盟との対立が和らいだ。また、關西麻雀聯盟が始めた段級位制は、東京でも日本麻雀連盟の空閑緑によって導入され、当初は空閑の独断専行で段級位が発行されて個人の収入源だと非難されたが、一九三〇年に「段位選考委員会」ができて久米正雄が委員長になって収まった。一九三一年の役員交代では、菊池寛が総裁職から退いて久米正雄に交代し、空閑緑は除名された。

こうして、東京方面での熱狂的な全国統合の試みは静まり、関東でも日本麻雀聯盟のほかに日本麻雀協會、日本雀院、本郷麻雀會があり、關西麻雀聯盟も健在で、関西の麻雀ファンの実力が遺憾なく示された。だが、時代の動きの中で麻雀ブームは急速に衰え、東京で目立ったメンバーが賭博罪で逮捕されるような事態となった。そして、東京中心の麻雀業界では、この混乱の記憶も徐々に薄れて、いつの間にか「麻雀もおらが町のが一番」という勝手な思い出にすり替わって行ってしまった。麻雀に関連するジャーナリズムでは、麻雀雑誌であれ、業界新聞であれ、麻雀小説であれ、東京の業界人の話ばかりが流されて、いつしか東京の人々が先覚者として賞賛されるようになった。その歪みは戦後もずっと続いており、最近ネットに溢れている麻雀史の話は、従来の奇妙な伝説を踏襲する者が多く、自分で歴史を発掘して史実を明らかにしようとするものは乏しい。私が、関西の努力を無視する日本麻雀史に違和感があるのは、もう今さら何の利害関係もなくなった今日でも、日本麻雀史を語る人はおおむねこういう東京発の自己顕示色の強い言説に唯々諾々と従って、それをコピーして虚構の日本麻雀史を語っているからであり、その姿が情けなく思えるからである。今日はすでに麻雀史研究も層が厚くなったのであるから、そろそろ偏見を持たずに史実を見て、関西や全国各地の麻雀ファンが果たしてきた大きな役割を掘り起こして的確に評価するべき時期なのではないだろうか。

上壽美枝『麻雀教科書』
井上壽美枝『麻雀教科書』

関西麻雀界の動向に戻ろう。この時期に、大阪市西區の光榮商店から田邊竹三郎が『世界的遊戯 麻雀の遊び方』を著した。さらに同年、京都市下京區の内外出版株式會社から下村白薇の『麻雀』が出版され、大阪市西區の井上盛進堂書店から井上壽美枝の『世界的支那遊戯 高級娯楽 麻雀教科書』が出版された。この時期には、夕刊大阪新聞や大阪毎日新聞(週刊『サンデー毎日』)などでの紹介記事も現れ、そこで登用した関西では無名の東京人、林茂光(鈴木郭郎)が全国的スターになる道も開いたし、丸善大阪支店社員(後の同書店社長)の司忠などが健筆をふるうとともにNHK のラジオ放送でも番組を制作して出演して、マスコミへの露出も増やした。関西は神戸港を抱えており、そこには中国人街もあり、上海市などの中国中部との交流、交易は盛んだったのだし、進取の気性に富む地域であったから、いち早く麻雀という新興の遊技を取り入れたのはごく当たり前のことである。

この頃、上海市の井上紅梅は、神戸に井上商店を持ち、そこからアメリカに向けて、麻雀牌の輸出を行うとともに、麻雀ブームのアメリカでは女性がチャイナ・ドレスを着用して麻雀卓に向う新ファッションが流行したので、上海市から女性の中国服の古着を輸出して大儲けしていたので、井上壽美枝は井上紅梅の親戚ではないのかとずいぶん調査したが、結局その関係は発見できなかった。そして、私の調査が始まったその頃、阪神淡路大震災が発生し、かつて神戸市にかすかに残っていた井上商店の記録も記憶もまったく消滅した。

井上紅梅は一九一三年に上海市に渡り、その文化、風俗に魅了されてそこにどっぷりと浸かって、当時「五大娯楽」と呼ばれていた「飲酒」「芝居」「阿片」「娼妓」「麻雀」をすべて自分で体験して、雑誌『支那風俗』で克明に報告していた。彼が麻雀に触れたのは同誌の第二巻第六号、一九一九年であるが、当時の上海市にはアメリカ人のバブコックがいてイギリス租界で麻雀骨牌についての講演を行うなど目立った活動をしており、両者の間に何らかの接触があったのではないかという疑問があった。バブコックがあれほど克明に麻雀に通じたのには、現地の人間の協力が必要であったが、上海の租界で、井上は支配者側の一員として悪所に出入りして享楽しており、バブコックとは中国語でもOKだが英語での会話も成立して、麻雀については詳しく教えてもらえたであろうと想像される。井上とバブコックは必ずどこかの酒場、妓楼、麻雀荘で出会っていたに違いないと思った。実際、井上は、アメリカでの麻雀ブームに便乗して、上海の古着屋でだれが着ていたのかも分からないような中国服を仕入れて、きれいにクリーニングして、ほころびも修繕して、このリサイクル品をチャイナ・ドレスとしてアメリカに輸出して大儲けしたし、裕福な欧米人の家庭を訪問して、すでに着飽きた中国服を買い取り輸出に回したことも多かったであろうから、井上の側から見ても、酒場や妓楼に出入りしており、租界の中の欧米人のクラブで麻雀についてよく講演して目立っていたバブコックに接触する動機は十分にあったと思われた。だが、残念ながら、結論的には両者の接触の証拠となるような史実は発見できなかった。

なお、ハルのプラスチック牌の製作、販売に関連するのが、大阪、神戸の「大日本セルロイド株式會社」(現在の社名はダイセル)と「内外セルロイド會社」が製作したプラスチック牌である。私は、ハルの「パンチョウ会社」からのオーダーで日本の化学製品会社が下請制作をしたものと推測している。大日本セルロイド社の場合は、一九二四年から一九二七年の四年間に限って製作している。骨牌を見ればインデックスが入っており、上海風の「一索」の図柄や、三元牌にイニシャルがないことなどからは、先進地域の上海製のプラスチック牌を模倣したのかと思えるが、「白板」に南中国特有の枠の図柄があるとことからすると、上海製の骨牌の図柄を南中国の制作者が真似して使い、それをモデルに日本で下請製作を行ったのかと考えられる。いずれにせよ、アメリカ市場向けのものであることが分かる。一九二〇年代の後半、麻雀ブームが一挙に冷めて麻雀牌の市場が縮小し、日本の下請け業者への発注が止まったのであろう。内外プラスチック社製のプラスチック牌は見たことがない。今のアメリカのネット上の古牌市場にはプラスチック牌が数多く出品されており、その中には同社のものもあるのだろうと思うが、オークションのサイトではこういう背景事情の情報が少なくて判断がつかず、隔靴掻痒、確かめようがない。ただ、日本側の情報によれば、内外セルロイド社は大日本セルロイド社よりも国内での販売にも熱心であったように見える。国内でも売るというのが同社の販売戦略であったのであろうか。

ハルが拠点にした中国国内の都市では、もちろん麻雀遊技の本場、上海市にも足場があって、ここで製造される骨牌でもプラスチック牌でも買い付けをしていたのだろうたが、中国南部の香港地区、広州市に重点があった。ここで作られる麻雀骨牌は、「白板」に枠の図柄が入っていて、骨牌の一部を紛失した際に備える何も彫ってない「白」の予備牌と区別されていた。また、外国向けの骨牌では、「東」「南」「西」「北」の「風牌」や「中」「發」「白」の「三元牌」にも、各々、インデックスを付けたので、「風牌」には付けたが「三元牌」には付けなかった上海製の骨牌と区別しやすい。ただし、用いられるアルファベットは微妙にずれていて、「中」が「C」、「發」が「F」、「白」が「P」という物は少ない。また、上海麻雀公司が骨材を使う麻雀牌に拘って原材料不足に困っていたのに対して、ハルは当時先端的だったプラスチック製の骨牌を積極的に導入して売りまくった。その際には、特に、アメリカのデュポン社が開発した「パイラリン」が使われたので、今日まで、麻雀古牌のマーケットにはパイラリン製の牌が多くあらわれている。

大日本セルロイド社牌
大日本セルロイド社牌

ただ、私の調査の過程で、井上壽美枝がプラスチック製の麻雀牌の販売に関わっていたことを知った。私は、以前から、大日本セルロイド社がこの時期に制作したプラスチック製の麻雀牌、一式を所持していた。この牌は、「ダイセル」本社の資料室にも半端な不足品が残るだけの珍しいものであり、従来の麻雀史の解説書類ではおよそ言及されたことがないものであった。私は、これはハルの会社の下請製品で、もっぱら対米輸出用に製造したものと考え、日本国内での流通の痕跡を発見できなかったので日本製のゼロ号麻雀牌と説明していた。ところが井上の著書の最終ページには、このような記事と広告が掲載されていた。

終(をはり)に麻雀(マーヂヤン)の價格(かかく)について一言(げん)書(か)き添(そ)へたいと思(おも)ひます。

支那(しな)製(せい)の麻雀(マーヂヤン)は價(あたひ)も高(たか)く百五十圓位(ぐらゐ)なれど其等(それら)は多(おほ)くは骨董品(こつとうひん)に重(おも)きを置(お)いた部類(ぶるゐ)に属(ぞく)して居(ゐ)ます。

今(いま)市井(しせい)に販賣(はんばい)せられるものは象牙(ぞうげ)製(せい)にて四十五圓位(ぐらゐ)、最近(さいきん)は種々(しゆゞゝ)の加工品(かこうひん)が作(つく)られセルロイド製(せい)にても却々(なかゝゝ)に捨(す)て難(がた)い精巧(せいこう)な物(もの)が出來(でき)てをります。

大日本(だいにほん)セルロイド會社(かいしや)製(せい)の麻雀(マーヂヤン)は四十圓位(ぐらゐ)にて市場(しぜう)に提供(ていけう)せられ亦(また)快聲堂(かいせいだう)の發賣(はつばい)にかゝるものは上海(しやんはい)製(せい)にて價格(かかく)は十三圓以上(いぜう)各種(かくしゆ)取揃(とりそろ)へられたりといふ子供(こども)用(よう)には木製(もくせい)にて三圓位(ぐらゐ)のものもあります。其他(そのた)中外(ちうがい)セルロイド會社(かいしや)にも諸種(しよしゆ)の麻雀(マーヂヤン)が制作(せいさく)せられて居(ゐ)ます。

◇各社製品宣傳の爲大割引!

高級なお遊び 世界的支那遊戯 セルロイド麻雀 美麗!箱入 (極上製品)百十圓 (特製A)三十五圓 (特製B)三十圓 (特製C)二十五圓 (獨習用の木製品)五圓 御申込は本書の發行所 盛進堂書店 振替大三一二八五番

◇家庭のお遊びには何と云つても今は麻雀!

井上はさらに、同書で、「本書の参考書となれる著者とその書名」として、「一、下村白薇氏著 麻雀(中外出版社)、二、麻雀遊戯法(中外セルロイド會社)、三、北野利助氏著 麻雀(の)遊び方」を挙げている。一、二は関西の書であり、三の北野利助は東京ベースで普及活動に取り組んでいた人物である。残念なことに私はまだ中外セルロイド社の『麻雀遊戯法』を手にしたことはないが、それでも、この時期の関西で、「大日本セルロイド社」や「中外セルロイド社」でプラスチック(セルロイド)製の麻雀牌が制作、販売されていたことと、「快聲堂」で上海製のプラスチック(セルロイド)牌が販売されていたことを知ることができた。井上はこれと別に、日本製のプラスチック製の麻雀牌を、この書の発行元、「井上盛進堂書店」から売り出していた。安価な麻雀牌を提供して急激に高まった需要に応えようとする試みは、関西での規模は小さかったが、後に東京の「文藝春秋社」が仕掛けたやり方はそっくりこれに似ている。プラスチック牌はアメリカ向けの輸出用で国内での販売実績はないという私の理解は誤りであった。

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