歌集『百人一首』誕生の謎 歌集『百人一首』誕生の謎 右:『百人秀歌』(『百人一首への招待』)、左:『百人一首』(『別冊太陽愛蔵版』) はじめに:『藤原定家「明月記」の世界』の刊行に触発されて 一 『百人一首』発祥論への疑問 二 「持統天皇」と「持綩天皇」という表記の差異が示すもの 三 『百人一首』を歌集と理解した場合の問題点 四 公家、藤原定家の「家記」と「家歌記」への執念 五 小倉色紙の登場 六 定家が添削して編纂した、自家の秘密教材たる百首の「歌群」 七 後鳥羽院との絶縁を表明する定家 八 『小倉百人一首』は後世に二條流が制作した歌集 おわりに
一 「舞台芸能絵合せかるた」の歴史 (一)江戸時代初期、前期の「絵合せかるた」 前章の3-1では、江戸時代初期(1603~52)、前期(1652~1704)にかけて、年号でいえば寛永年間(1624~44)から元禄年間(1...
二 家族遊戯具としての「いろはかるた」の衰退 (一)「上方イロハかるた」の衰退 子ども向けの「イロハかるた」は明治前期(1868~86)には和紙に木版摺りのものが多かったが、徐々に洋紙に機械印刷のものに変わるようになり、...
5-1 江戸時代初期、「歌合せかるた」の成立 四 歌合せかるたの「貝覆」起源説 このように、「しうかく院」考案説が少しずつではあれ関連資料の発掘、研究で前進してきたのに対して、それ以前に通説であった、江戸時代初期、前期(...