三 ポルトガルのカルタの遊技法 (四)「松浦屏風」のカルタ遊技図像の解析 しかし、問題はむしろこの外にある。まず、京都においては、慶長年間(1596~1615)にはカルタ遊技はまだ新奇な遊技であり、公家の中院通村が友人の大名から教わってカルタ札を特注で制作させて遊んでいた記録のように、ごく一部の武家や公家の間で遊技に供される程度である。この中院通村の記録はすでに紹介したように、日記中の元和二... 館長
三 ポルトガルのカルタの遊技法 (三)「松浦屏風」のカルタ札図像の解析 カルタ遊技図郵便切手(松浦屏風、大和文華館蔵、江戸時代中期) 成瀬論文までの議論の応酬は、主として画題の衣裳を取り上げて検討したものであるが、別の視点から成瀬の問題提起に応じた指摘が登場した。漆工史研究の近藤利江子は画中資料の硯箱の描写を分析し、「実際に描いた時期と、絵の中に表現しようとした時期が異なっていると解釈する... 館長
三 ポルトガルのカルタの遊技法 (二)カルタ遊技史料、国宝「松浦屏風」の登場 江戸時代初期(1603~52)のカルタ遊技の研究において必ず参照されるのが、奈良県奈良市の大和文華館蔵の国宝、六曲一双の「婦女遊楽図屏風」(以下、「松浦屏風」)である。当時大流行した「邸内遊楽図」は遊里での男女の交際の姿を描くものであるが、「松浦屏風」は慶長年間(1596~1615)の遊女の姿を群像として描いたものであ... 館長
三 ポルトガルのカルタの遊技法 (一)ポルトガルのカルタの遊技法 天正カルタ遊技図(『松浦屏風』大和文華館蔵) カルタの伝来は、本来はカルタ遊技の伝来である。それなしに、使用目的も使用方法もわからないままで遊技具のカードだけが伝わるという事態は考えにくい。そこで、日本にポルトガルのカルタが伝わっている以上、そこにはポルトガルのカルタ遊技も伝来していて、それが天正カルタの遊技法になって... 館長
二 「南蛮カルタ」を改良して成立した「天正カルタ」 (七)手描き木版「天正カルタ」(三池カルタ)の出現 「手描き木版天正カルタ(元禄年間頃、『遊びの流儀 遊楽図の系譜』)」 令和元年(2019)六月、東京のサントリー美術館で「遊びの流儀 遊楽図の系譜」展が開催され、そこに江戸時代前期(1652~1704)の手描きの「天正かるた」一組三十七枚が出品された。このカルタは縦五・三センチ、横三・二センチの小型で、第三期のカルタ札... 館長
二 「南蛮カルタ」を改良して成立した「天正カルタ」 (六)「天正カルタ」の小型化が意味するもの 天正カルタのドラゴン・カード (上段:火焔龍のハウ、イス、コップ、 下段:蝙蝠龍のハウ、イス、コップ、オウル) まず注目するべきは、日本のカルタには火焔龍と蝙蝠龍の二系統があるという事実である。火焔龍は①「南蛮文化館」蔵のカルタにすでにあらわれ、その後、手描きの天正カルタ、うんすんカルタ、「すんくんカルタ」に継承されて... 館長
二 「南蛮カルタ」を改良して成立した「天正カルタ」 (五)小型化された「天正カルタ」 「天正カルタ版木莨箱」 (滴翠美術館蔵、江戸時代前期) ⑧「カルタ版木莨(たばこ)盆」と⑨「天正カルタ版木煙草盆」であるが、前者は、美術工芸雑誌『美術・工芸』昭和十七年(1942)五月号の無署名小記事「天正かるたとうんすん多加留(加留多の誤植?)」に縦一センチの小さな写真でカード十枚分添付されているものであり、後者は『... 館長
二 「南蛮カルタ」を改良して成立した「天正カルタ」 (四)保存状態に疑問の多い「カルタ版木重箱」 天正カルタ版木重箱 (神戸市立博物館蔵、江戸時代初期) 次に検討するのは⑦の神戸市立博物館蔵の「カルタ版木重箱」である。これは大正年間(1912~1926)に永見徳太郎の南蛮文化品コレクションに属し、昭和前期(1926~45)に池永猛に譲られ、昭和後期(1945~89)に神戸市の所有となって今日に至っており、古くからの... 館長
二 「南蛮カルタ」を改良して成立した「天正カルタ」 (三)史料価値の高い「天正カルタ版木硯箱」 初期天正カルタ版木(硯箱に加工、江戸時代初期) ⑥の史料は、平成十四年(1992)に三池カルタ記念館で購入を検討したことのある初期の「三池カルタ」の版木で、結局、価格面で折り合いが付かずに購入をあきらめたが、その過程で実物を手にして調査することができた。その際の記録を元に説明すると、これは版木八枚、合計カード三十二枚分... 館長
二 「南蛮カルタ」を改良して成立した「天正カルタ」 (二)初期の「天正カルタ」の形 安土桃山時代から江戸時代初期(1603~52)、前期(1652~1704)に、北九州、京都、大坂を中心に流行したカルタ遊技を支えた初期の国産カルタを天正カルタと総称する。これは、構成が南蛮カルタと同じ一組四十八枚で、(1)手描き、手作りの物と(2)木版摺りの物とがあった。この天正カルタは南蛮カルタの強い影響下に制作され... 館長
二 「南蛮カルタ」を改良して成立した「天正カルタ」 (一)「南蛮カルタ」の形 日本のカルタ史研究の大きな弱点は、初期の「南蛮カルタ」のイメージが全くつかめないことであった。国産の「天正カルタ」としては、すでに消滅していて、「三池カルタ館」が復元に成功した「三池カルタ」一組四十八枚、大阪の「南蛮文化館」蔵の手描きの「天正カルタ」四十二枚、平成初期に私が発見、報告した、「天正カルタ版木硯箱」の版木三... 館長
2-1 「天正カルタ」の誕生 一 「カルタ」という言葉の日本語化 安土桃山時代に日本に最初にカルタが入ってきたとき、「カルタ」は四十八枚の特有の紙片を使ったゲームの名称として伝わってきた。ヨーロッパには、さまざまなカルタの遊技法があり、「プリメロ」「オンブル(レネガド)」「タロッキ」「トリウムフォ」などのゲーム名があったが、日本ではそうしたヨーロッパの遊技名の伝来を跡付ける史料が発見... 館長