二 大日本帝国の植民地経営における花札の活用 (三)租借地、関東洲における「大連花」の流行 「大連花」 花札は日露戦争とその後の満洲の支配においても活用された。新たに租借地となった関東州には骨牌税の適用はなく、また、それに代わるローカルな法令も作られなかったので花札は無税で販売されて有利だった。この地でも、またここを根拠地として北に広がって行った満洲各地でも花札は盛んに遊ばれた。そのうちに、図像にささいな変化... 館長
二 大日本帝国の植民地経営における花札の活用 (二)植民地朝鮮における花札の流行 「北海花」に続いて大きく発達したのが「朝鮮花」である。この地においては、明治二十七、八年(1894~95)の日清戦争において、この地を制圧した日本軍の兵士や軍属、軍夫が花札を大量に持ち込んだ。これが朝鮮における花札の始まりであるが、その後も日本のカルタ屋が現地に芽生えた需要を狙って輸出を試みていた。そこに生じたのが明治... 館長
二 大日本帝国の植民地経営における花札の活用 (一)日本の植民地における花札 大日本帝国は活発に領域の拡大を追求して、大国になっていった。その際に対外膨張の最前線は、日本軍の軍事行動と土木工事への兵站を担った軍属、軍夫、土建業者、鉱物資源採掘関連の鉱業者で占められていた。そのためには、軍の物資の輸送や鉱工業、土木工事の展開のために「軍夫」として大量の労働者が送りこまれ、そして、そういう現場では、... 館長
一 近代日本人の対外進出と花札 (三)「総理大臣の花かるた」の正体 ちょうどこの時期、明治三十四年(1901)から三十五年(1902)にかけて伊藤博文が欧米を視察する旅行に出かけていたことはすでに述べた。その際に伊藤は土産品としてこうした大型の花札を何組か購入したようである。この話が販売したカルタ屋の側では、伊藤博文が特別注文でごく少数を製作させて買い上げた一社限りの貴重な限定版だとい... 館長
一 近代日本人の対外進出と花札 (二)ハワイの日本人移民と花札 花札を実際に遊技具として多く使ったハワイでは、日本人移民の増加と共に花札が持ち込まれた。たまたま熊本県出身の移民が多かったので、ハワイの花札の遊技法は熊本風になった。熊本の地方ルールでは、短冊札が十点で生き物札が五点なので、ハワイの花札のルールでもこのようになっている。この地で用いられた花札は「八八花札」であった。日露... 館長
一 近代日本人の対外進出と花札 (一)日本製のかるたの対外進出 江戸時代末期(1854~67)の開国以降、日本国内は押し寄せる西欧の文化に翻弄されて嵐のような変革に直面したが、他方で、いち早く日本人の海外への進出も生じた。真っ先に生じたのは、外国人商人による男女の日本人奴隷の輸出であった。国内での人身売買が年季奉公として認められていたのであるから、その延長線上に、海外の職場での年季... 館長
近代カルタ文化の研究 第五章 大日本帝國の標準装備となったカルタ Pinterest Instagram Facebook-f < 第四章 トランプ、麻雀、競技かるた 第六章 昭和後期のカルタ、かるた > ©2018 Japan Playing Card Museum... 館長
三 「百人一首歌かるた」の動向 (四)歌かるたの衰退と「萬葉集歌かるた」の勃興 松成堂の「源氏歌かるた」 「百人一首歌かるた」以外の「歌合せかるた」類は、明治時代の終わり頃までにはこれをなお愛好していたごく一部の趣味人を別にすれば過去のものとなっていた。江戸時代に広く愛好されていた「古今集歌合せかるた」「自讃歌合せかるた」「三十六歌仙歌かるた」「伊勢物語歌合せかるた」などは近代化の波の中に没して姿... 館長
三 「百人一首歌かるた」の動向 (三)競技かるたの登場と展開 明治年間(1868~1912)に、大人の間では、正月にかるた会を催して男女が共にこれを楽しむ習慣が盛んになり、当時としては数少ない若い未婚の男女の公然とした交際の機会として流行した。尾崎紅葉の『金色夜叉』はそうした「かるた会」の描写で有名である。そして、明治二十五年(1892)頃に、東京帝国大学の学生の間でこれを競技と... 館長
三 「百人一首歌かるた」の動向 (二)子ども用「美術教育百人一首」の登場と衰退 もう一つ、近代の日本での「百人一首かるた」というと見過ごせないのが、明治二十年代(1887~96)以降に、もっぱら子どもを対象にして「教育玩具百人一首」などと名付けられた粗略なカルタが制作、販売されるようになったことである。それは新時代の西洋紙、機械印刷技術を活用したもので、当初は草書体のものであったが、後に活字印刷の... 館長
三 「百人一首歌かるた」の動向 (一)「百人一首」批判の高まり 「百人一首」のかるたは、明治年間(1868~1912)にも盛んに用いられたが、順風満帆であったわけではない。それは様々な批判にさらされてもいた。 まず、何よりも、「百人一首」という歌集の評価が定まらなかった。この歌集が日本の和歌史を飾る百人の優れた歌人、あるいは感動的な百首の和歌を集めたものであるとは考えられないという... 館長
二 大正末期の新輸入品、麻雀の伝来 (三)日本国内での麻雀の流行 「麻雀」は、まず関西で流行した。大正年間には、多くの情報が関西から発信されたし、麻雀牌の輸入や国産化でも関西が一歩先にいた。それが、徐々に東京でも流行するようになった。健全な家庭娯楽としても用いられたが、やはり中国の伝統のままに賭博遊技に用いることも多くなった。こうした趨勢を見ていた日本の警察当局、政府の対応は早く、大... 館長