九 日本の遊技文化は「ゆるい」
私は、もう半世紀も前になるのだが、『古事類苑』の「遊戯部、五、物合せ」を読んで大変に驚いた。それまで私は、「合わせる」という語は、「お見合い」のようにピッタリ適合するものを捜して合体させることだと思っていたのだが、それは江戸時代中期以降の語義であって、それ以前の時期からの「物合せ」の遊技では、二手に分かれて「競う」ことが肝だと知った。そして、そこからがまた面白いのだが、競い合いの勝者と敗者が決まると、今度は皆で一つになって「和合」する。それは、ラグビーの試合で激しく争うのだが試合が終わればノーサイド、両軍がお互いの健闘をたたえ合って歓談する風景に似ていた。真剣に競い合うが、決して致命的な打撃を与える闘いにするのではなく、勝敗が見えれば双方でそれを認め合い、和睦して仲良く親睦を図る。「競う」が「合せる」という、なんとも「ゆるい」遊技の文化であったのだ。
たとえば宮中で発達した「歌合せ」という高貴な遊戯の場合は、宮中の一堂に会した和歌の優秀な作り手が右方と左方に分かれて座り、両陣営の中から誰かが前に出て、与えられたお題に添って和歌を詠み、短冊などに書いて判者に提出する。すると講師(こうじ)がその和歌を詠みあげ、判者(はんじゃ)は提出されたものを見て優劣を判断して、その判定、「判詞」を読み上げて勝敗を宣言してコメントを付ける。技量が互角の時は「持(じ)」になる。すごいのはその最初の段階で、その席に出席しているもの全員が講師の読み上げを受けて提出された和歌を唱和することである。つまり、競い合うとは、全員で唱和することで共有した二者の内でどちらが少しでも優秀かと、相対的な優劣を争うことで、ゼロサムで相手を撲滅する絶対的な価値の勝負にするのではない。当然、技量が互角な「持(じ)」のケースも多発する。そして参加者は、優劣についての判者の判断を世間共通の評価として自分の身に沁みさせながら、勝者の和歌も敗者の和歌も我がものとする。何と穏やかな競い合いだろうか、これでは自分の価値観を育てるよりも以前に世間の価値観を我身に取り込んでしまうことになる。
これは、中世の日本仏教の各教団で、宗教者の唱える呪文を信者が繰り返し唱和して追随する伝統に繋がっていく。「南無阿弥陀仏」でも「南無妙法蓮華経」でもいいけど、何回も繰り返して唱えるうちにその空間に言霊が満ち満ちて法悦の空間になる。支配者、指導者の価値観、社会の通念が身に沁み込んでしまう閉鎖的な社会はこうして育つのだとショックを受けたものである。
対戦相手を必殺でできれば全滅させる異教徒撲滅の十字軍のようなヨーロッパのトリックテイキングゲームの激しさが、日本社会の空気の中で徐々に溶けて、あの眼前に落ちている無主物を拾い集めるような穏やかな「めくりカルタ」の遊技法に変身するには、全体に指令する統一的な権威も団体もない時代のことだから、長い時間をかけて、ゆっくりと、あちこちの賭けの遊技現場、賭場での工夫で少しずつ変化したに違いない。だから全体が日本好みに染まるには数十年の長い時間が必要である。ヨーロッパ的な「原ウンスン」の激しい遊技法が日本化し、ゆるい「プレめくりカルタ」に流行が移る過程が『雍州府誌』が編まれた時期までに完結していて、この書籍にそうした日本化された最新型の賭博法を採用している賭場の事例が掲載されており、本家本元の南蛮カルタの「原ウンスン」の遊技法が、まるで春に降って一度は積もった淡雪があっという間に嘘のように消滅しているように、この短期間にすでに溶けさってしまったので一言も言及されていないとは思えない。黒川の取材態度はもっとのんびりしているように見える。これが『雍州府誌』に関する私なりの大きな判断である。
日本の社会では、「返り忠」は当たり前である。日本の勝負事は、天下分け目の大合戦から小さな将棋盤上の争いまで、競い合うけど裏切りはあり、戦いに一応決着が付いたらノーサイドでニコニコ談笑するという、勝海舟のような「ぬるい勝ち負け」のできる人間が生き残れるのである。そして、こういう「ゆるい」賭博遊技をしていた日本の社会であるとすると、ポルトガル船が運んできたカルタの遊技は、とくにトリックテイキングゲームの、敗者には身の置き所がなく、下手すれば全滅させられるだけという激しさは、まさに異文化であったと思う。それに触れた日本人は、その遊技に少しずつ慣れて、カルタ札も自由に使いこなせるだけの技を身につけるようになると、やおら、対立を緩和する日本的な工夫を始めたのだろうと考えている。例えば大負けした者への「割り戻し」とか、次の回では有利な「オヤ」の座を回して回復の機会を与えるとかである。「天正カルタ」系や「めくりカルタ」系の遊技に「幽霊札」というエキストラ・カードがある。この札を確保できた遊技者は、敗北しても、「幽霊だからおあしがない」ので、その回の賭銭、「おあし」の支払いを免除される。こんなに奇妙な、そして敗者に優しいルールは、ヨーロッパでは想像もできない。
そして、こんなことを黒宮さんに言うのは釈迦に説法だけど、当時のカルタ遊技の場では、どこかに権威ある公的な協会か競技団体があって、そこが決定したルールが全国的に統一的に適用されるという近代の賭博の場とは異なり、各々の愛好者グループの中で小さな工夫が始まり、敗者への優しい配慮が加えられたルールが発達し、いつしか、勝者が総取りという南蛮人の激しさからの離脱が進行し始める。そして、そういう離脱があちらこちらで起きて、日本人の感性に合うものが他の遊技者グループにも伝播して、大勢がそちらに傾くようになるには、さらに長い時間が必要であろう。『雍州府誌』の遊技ルールの説明は、そんないくつもある遊技グループの中のどこかのグループを取材して得られた限られた知識であり、ある「地方札」の、ある段階のルールの説明であって、決して、全国的に普遍的なルールの体系的な解説ではない。