五 ヨーロッパ人研究者の海域アジアカルタ史観

なお、これと関連して、フランスのカルタ史研究者、ドゥポリスの提唱している「原ウンスン」という考え方に一言しておこう。黒宮さんによると、ドゥポリスは、「うんすんカルタ」は、一組四十八枚のポルトガルのカルタが日本に伝来した後に、日本国内で考案されたカルタであると考えているようで、だから、「うんすんカルタ」のカードの図柄には伝来当初の一組四十八枚のカルタ札のそれが色濃く反映しており、「うんすんカルタ」の遊技法として今日まで伝わっているものも同様であり、したがって、「うんすんカルタ」の遊技法を、時計の針を逆に巻き戻すように逆転させれば、一組四十八枚の「南蛮カルタ」の原初の遊技法、デュポリスが命名した「原ウンスン」にたどり着くというのである。黒宮さんもおおむねこれに賛同しているようである。

私にはよく分からないが、「うんすんカルタ」に強く感じる南方中国社会臭さ、そこから起る「原うんすんカルタ」は日本国内での考案ではなく海外の南方中国人社会からの伝来ではないかという疑問は、ドゥポリス説では解消できない。そして、ドゥポリスがいう「原ウンスン」という用語に該当する、一組四十八枚のカルタを使うトリックテイキングゲームの遊技法については、日本国内では以前から研究者の間で「天正カルタ」という名称を与えて学術用語として安定して使ってきているので、これを「原ウンスン」という用語に改めようとする趣旨も分かりにくい。日本の学界の学術用語はスルーであろうか。私としては、「原ウンスン」という言葉には、日本に伝来したのは一組四十八枚の「原ウンスンカルタ」の遊技法で、そこから一組七十五枚の「うんすんカルタ」の遊技を発達させたのは日本人の工夫である。したがって、一組七十五枚の「うんすんカルタ」も日本国内での発明品である、というドゥポリスの唱える「うんすんカルタ」の発達史には、ドゥポリス固有の日本発祥説の匂いが強すぎるので、むしろ、一組七十五枚で日本に伝来したカルタの当初の遊技法をイメージする用語として別に残しておいて、たとえば、「『雍州府誌』が言う「ウムスムカルタ」は、「原うんすんカルタ」の遊技なのか、それとも後世の「うんすんカルタ」と同じもののことなのか」というように、学術の世界での議論のツールとして活用したかったので、「原ウンスン」は四十八枚だ、と最初から決められてはもったいないと考えている。

私の「妄想」を簡単に言ってしまえば、一組四十八枚のカルタは、ヨーロッパのカルタ札が、したがってヨーロッパのカルタ遊技の技法が、バタヴィアの南蛮人社会からストレートに日本にやってきたものだが、一組七十五枚のカルタは、元々は一組七十五枚のタロット系のカルタがヨーロッパから伝来したのだろうけれども、そういうカルタが東アジアの南方中国人の社会に伝来して、そこで遊ばれるうちに変化して、一組五紋標七十五枚の「うんすんカルタ」に変化して、いわばそこで一休みして変化してから日本に伝わったという事態を「妄想」させる。いいかえれば、日本には、黒宮さんが「原ウンスン」と呼ぶ、一組四十八枚のカードを使うトリックテイキングゲーム、同じく一組四十八枚のカードを使い、札のポイントの合計が「十五」であると最高、最強になる「キンゴ」のゲームと、このゲームから派生した「九」が最高の「カブ」のゲーム、そして一組七十五枚のカードを使う「うんすん」のトリックテイキングゲーム。この三者が相次いで伝来したことになる。

ここで突然に「キンゴ」や「カブ」という一組四十八枚のカルタの遊技法に筆を伸ばしたので奇妙に思われると思うので少し弁解したい。黒宮さんは、著書の中で、ポルトガルからインドに向かう貿易船の中では、ギャンブル嫌いの宣教師たちとゲーム好きの船員たちのあいだで、チェス、バックギャモン、トルンフは(金を賭けて?)遊んでよいという取り決めがあったという説を紹介している。それならば、アジア航路の後半部分、インドからバタヴィア、バタヴィアからジパングまでの航海ではどうなっていたのだろうか。普通に考えれば、ポルトガル人の船員がインドまでの前半の航海で楽しんで熟達した遊技法で、インド以降の後半の航海でも楽しんだと想定される。そうすると、バタヴィアから日本への航海でも、「トルンフ」が遊ばれていた可能性が高く、バタヴィアないし航路途中の中国の寄港地で雇われて乗船した中国人船員、水夫も「トルンフ」で遊び、それに慣れて、日本に到着した時には、経験に富んだ熟達のチューターになっていて、お手のものの「トルンフ」について日本人に教えていた可能性が高い。その際に、関係する用語が多少中国化されていて、中国語に訛ったポルトガル語の言葉も混じって説明されたのだとすると、南蛮船の中国人船員、水夫がカルタ伝来の使徒であったと「妄想」している私としてはすとんと納得がいく話である。ひとつ良いことを勉強させてもらったと感謝している。

次に、黒宮さんは、配られた札の数字の合計が「九(カブ)」だと勝ちで、「八(オイチョ)」がそれに続く「オイチョカブ」という名称の遊技法について、「オイチョ」はポルトガル語の「八」に由来するが、「カブ」とポルトガル語の「九」とは発音が不一致で、結局は、これは広東語の「九(ガウ)」が語源ではなかろうかと指摘する。また、「一」は、「ピン」とか「ツン」とか呼ばれるが、これもポルトガル語とは発音が不一致で、むしろ、中国の紙牌遊技で紋標「一文」を意味する中国語の「餅子」ないし「筒子」の「餅(ピン)」ないし「筒(トン)」に由来するのではないかとも指摘する。この考え方は従来の日本での考え方に近く私もあまり異論はない。つまり、初期のカルタ用語が、黒宮さん流に言えば「何もかもポルトガル語に由来すると考えるのは危険であり、それ以外の可能性を探るのも重要であることを強調しておきたい。とりわけ中国語の影響は意外と大きいように思う」ということである。十六世紀、十七世紀の東アジアにおける国際交易の姿、とりわけ中国船や中国人商人の活躍ぶりを想定して、東南アジアの中国人社会、とくにマニラのそれ経由で日本に伝来したカルタもあったのではないかと考えている私として、ごもっともなお教えだと思う。ただ、「意外に」という言葉には少し引っかかる。黒宮さんにとって、十六世紀、十七世紀の海域アジアの沸騰する中国人社会はこの程度の位置付けなのであろうか。この時期の海域アジアの歴史を考える際には、南方中国人こそが主役であった事情を考慮するべきだと考えている私であるから、脇役であった日本社会に主役の中国人社会で通用している中国語が影響するのは至極当然、本筋の話であって少しも「意外」ではない。世界の遊技文化はヨーロッパ人だけで回っているのではない。だからこういう局面では「意外に」と言う言葉は発しない。端的に、「影響は大きい」ともっと断定的に書くであろうな、と思う。

この先、次節以降では、カルタ遊技の日本への伝来と言う主題から、日本国内でのカルタ遊技の発展と中国人の関りと言う主題へと移っていきたいので、その前にこれまでに述べてきたことを要約しておきたいが、要するに、十六世紀、十七世紀の東アジアの海域アジアでは、この地域の人々による、国境をあまり意識しない自由な交流と交易の社会、関係が成立しており、そこに到達した大航海時代のヨーロッパの人々、宣教師と商人と船員、水夫は、東アジアの人々に強烈な印象を残し、多くの文化的な影響を与えたが、その一つがカルタの伝来であった。かつての欧米のカルタ史研究では、この時期の状況は、キリスト教の伝道と同様に、未開のアジアへのヨーロッパの進んだ文化の浸透と考えられており、カルタで言えば、ヨーロッパの進んだ遊技法やそれに使うカルタ札があり、海域アジアの人々はそれを教わり、それを真似して、まるで五歳の幼稚園児が生まれて初めてカルタに接して遊び方を教わったように、プリミティブ・アートのカルタ札を制作して、ちょっとおかしな、簡略なルールで遊技するほどには理解したという認識であった。日本のカルタ史もこうした枠組みで判断されているのであろう。アジアの未開の原住民に進んだ神の教えと文明の恩恵を与える。学術の世界での植民地化の賛美、ヨーロッパ帝国主義である。

以上の様な経緯で、私は、東アジアのカルタ史を追うのであれば、海域アジアの中国人社会とその住民の生活、遊技に接してその歓びや哀しみを理解し、それが同じ海域アジアの北端の日本で生じたカルタの発達にも大きくかかわっていたという作業仮説の下で調査、研究を続けるべきであろうと思うようになった。

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