八 江戸時代前期の基本史料、『雍州府誌』の解釈論争

それでは、これから後段、『雍州府誌』の記述の理解に進もう。この点は、以前に、江戸カルタ研究室と私の間でやり取りがあり、研究室の史料批判の認識が私と違いすぎていて議論にならなくて、基本的には片付いた問題だと思っていたのだが、黒宮さんがわざわざ大事な著書の一章を割いて私の説を批判してくださったのでご挨拶をしようと思っている。

ここで、このいきさつを知らない人のために、この論争の跡を要約して振り返っておこう。私がカルタの歴史を学び始めた頃は、江戸時代のカルタ遊技には、「よみカルタ」「かぶカルタ」「めくりカルタ」があるという明治時代以来の理解が疑われることなく通用していた。これを、伝来したカルタ遊技はこの三種類に限られると考える「カルタ遊技三類型説」と名付けよう。当時は、この理解が疑われることなく通用していたので、カルタ史を語る際にはこの三種類の遊技法に触れていたし、昭和四十年代に盛んになった著作や雑誌の特集記事は、そのことごとくがこの「三類型説」で説明していたし、そこに添付された図像もこの区分で掲載されていた。

他方で、私は、①初期のカルタ遊技には、ポルトガル船の船員から広まった「カルタ」と呼ばれたトリックテイキングゲームと、十五を勝数とする「しんごカルタ」と、「よみカルタ」があり、②少し後にはトリックテイキングゲームは「合せカルタ」と呼ばれるようになり、「しんごカルタ」は九を勝数とする「かぶカルタ」に代わり、「よみカルタ」と合わせて三類型になり、③後に江戸時代中期にはこれが「よみカルタ」「かぶカルタ」「めくりカルタ」の三類型に代わった、と言う歴史観を示したのである。これは、旧説の「三類型説」を改定して、「トリックテイキングゲーム」を加えた「四類型説」であったが、当時は、「トリックテイキングゲーム」と言う言葉さえ知られていなかったのであり、『雍州府誌』が編集されたのは②の時期であるという私の「四類型説」に付いてこずに、ただ自説が否定されたことへの激しい違和感を示す者ばかりであったとしても不思議ではなかった。この旧来の「三類型説」の拘束力は非常に強く、後に二十一世紀に入ってデジタル時代になり、ネットにカルタ関係のページが作られるようになっても「三類型説」で編集されており、そこで例えばネットの特性を生かしたカルタ遊技図のページを開設して、四類型の遊技の画像をすべて「三類型」に押し込めてしまうので、手元に「取り札」のがある「よみカルタ」の遊技風景画像などという理解不能の奇妙な編成になっていてもその不自然さが自覚されないという状態であった。

そして、貞享三年に刊行された京都の地誌『雍州府誌』のカルタ札作りの説明の中に、「互所得之札合其紋之同者其紋無相同者爲負是謂合言合其紋是義也」という一文がある。「得たところの札を互いにその紋標の同じものを(出し)合せて、その紋標(の札)と相同じ紋標(の札)がない者は負けと為す。これを「合せ」と言うのは、その紋標を合せるという語義である。」とでも現代語訳ができようか。

紋標を合せる遊技とは、現代では、「ツーテンジャック」とか、「ナポレオン」とか、「五十一」などでおなじみの、一人一枚ずつ手持ちの札を出し合って、一番強い札を出したものがその回(トリック)の札をすべて獲得するというもの、「トリックテイキングゲーム」である。ところが、①私以前の研究者たちは、「三類型説」なのでその遊技法のどれにも当てはまらない「合せ」の遊技法の説明は理解不能で、学界ではそういう時によく起ることだが、江戸時代前期のこの本の著者、黒川道佑の誤記だとして無視していた。これが「誤記説」である。②ところが私は、この文献を先入観なく読めば、十六世紀、十七世紀の世界ではもっとも盛んに遊ばれていた「トリックテイキングゲーム」の説明として妥当であり、『雍州府誌』は第四番目の遊技法、歴史の順序からすれば一番古い、「南蛮カルタ」の到来当時の遊技法、原初の名前は多分「カルタ」であったが、その後に「よみカルタ」とか「かぶカルタ」などの遊技法が登場してからは、これらと区別するように「合せカルタ」と呼ばれたトリックテイキングゲームの遊技法のエッセンスを、短文で不十分だが正しく伝えていると理解した。

③こうした私の新説の主張に対して、当時の大方の権威者は「この新参者が」というような不快の表情ではあっても反論はしなかった。言われていることは気に入らないが、自分が十分な調査、研究をしていないので積極的な反論はできないということであろう。そこに割って入ってきたのが「江戸カルタ研究室」で、私の新説が成立しないことを積極的に論破しようとした。その際に、このサイトは、それならば『雍州府誌』で「合せ」と呼ばれて説明されていた遊技は何かと言う疑問に、それは「めくりカルタ」の前身「プレめくり」である、と説明した。『雍州府誌』はこの遊技法の説明の前後で、「よみカルタ」と「かぶカルタ」を説明しているのだから、「三類型説」を信じる者には、差し引き、これは「めくりカルタ」の説明でなければならないことになり、しかし、「めくりカルタ」は、江戸時代中期、『雍州府誌』が刊行された時期からすると二世代、七十年以上後の江戸に生じた遊技法であり、それ以前、江戸時代初期や前期の京都や大坂、それに江戸に存在していたことを証明する史料は存在しない。そこで、「プレめくり」、つまり「めくりカルタ」の前身というものを想定したということであろう。「三類型説」の拘束力はこれほどに強かったのである。④このサイトは、こういうものだから史料が少ないのだと主張した上で、何点かの文献史料をご提示した。ただ、ここで提出された文献史料は、多くが片言隻句(へんげんせきく)の類であり、しっかりとした史料批判を加えて学術的な議論のデータとして使えるようにしてからの提出ではないのでいかにも弱々しく、ああそうですかということで議論は立ち消えに終わった。⑤また、こう理解すると大変に困るのは、安土桃山時代から江戸時代初期にかけて伝来した「南蛮カルタ」の遊技法はどういうもので、どこに行ったのかがさっぱり分からなくなることである。私は、それは世界中がそうであったように「トリックテイキングゲーム」で、当初は「カルタの遊び」と言えばこれしかなかったのでこの呼称で用が足りたが、後になって、「よみカルタ」、「かぶカルタ」等が登場したので、これらと区別する趣旨で「合せカルタ」と呼ばれたのだと説明したのだが、それを否定してしまい、『雍州府誌』は「プレめくり」を説明したのだということにすると、肝心の原初の「南蛮カルタ」の遊技、「トリックテイキングゲーム」が歴史から消滅してしまうのである。「南蛮カルタ」の遊技風景を描いたり、その遊び方を書いたりした史料はひとつも発見されていない。私は調べ切れていないが、ポルトガルにも貿易船が東アジアに持ち出したカルタの遊技法に関する文献史料は多分残されていないだろうと推測している。この辺は黒川さんに教わりたいところである。したがって、日本には「トリックテイキングゲーム」は伝来していなかったとする考察はいけないという決まりはないのだが、いかにも淋しい説である。私は、その後、このサイトがどのように自説を正してトリックテイキングゲームの存在を許容したのかはフォローしていないので、サイトのページが修訂正されたかどうかは知らない。見過ごしていたのだったら失礼しましたである。

ここに登場したのが一人の外国人カルタ史研究者、フランスのドゥポリスである。ドゥポリスは、日本の一組七十五枚の「うんすんカルタ」をみて、このアジア臭いカルタをヨーロッパ人が日本に伝来させたとは思わなかったのであろう。彼は、「うんすんカルタ」は海外から伝来したカルタではなくて、一組四十八枚のヨーロッパのカルタが日本に伝来した後に国内で考案されたもので、だからアジア臭いのだと理解したのだろう。このアジア臭い変容については私も同意するが、私には、細かく見ればそれは日本文化よりは中国文化臭いと思われるのであり、この変化が、日本国内で、カルタの日本化として生じたとは思えなかった。私は、ドゥポリスが一組七十五枚の「うんすんカルタ」の札に混在している日本文化臭さと中国文化臭さをどう識別したうえで彼の日本国内発祥説を組み立てたのかは知らない。すべてを日本的な特徴と把握して走ってしまったのではないかと恐れる。

いずれにせよ、ドゥポリスは、日本人が一組四十八枚のカルタで海外から学んだ「トリックテイキングゲーム」の遊技法の真似をして、その日本初の新ゲームを行うために一組七十五枚のカルタを考案したと考えたのだろう。だから、一組四十八枚のカルタから発展した一組七十五枚の「うんすんカルタ」の遊技法をよく調べて、発展を逆行させると、元祖の一組四十八枚のカルタの遊技法にたどり着く。ドゥポリスはこうして発見された一組四十八枚のカルタで行うトリックテイキングベームを「原ウンスン」と命名した。これがドゥポリスの考え方の骨子である。日本に伝来した最初期のカルタ遊技は、トリックテイキングゲームと想定されるが、それには学術的な議論で使うことのできる適切な呼称がない。実際には「カルタ」という呼称であったと思われるが、どうも落ち着きが悪い。だからそこに「原ウンスン」と言う呼称を提案したドゥポリスは評価する点もあるが、説得的ではない。

私は、こういうドゥポリスの考え方は、いかにもヨーロッパの研究者の考え方だと思う。つまり、昔の欧米のカルタ史の著述では、カルタは文化の進んだ欧米の産物であり、それが域外の未開地を文明開化させる大航海時代の波ともに全世界に普及し、各地の現地人もこれを学んで愛好し、少し誤解しながら現地風のカルタ札やその遊技法を模倣して作成したというのが基調であり、アジアやアメリカで作られた「土着民」のカルタはプリミティブ・アートの「珍物」であり、その遊技の歴史は、欧米中心のカルタ史の本筋からするとコラム、エピソードの扱いであった。

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